規則的な時間がない カタチを変え 互いの位相を交換した フラクタル構造体 -自分ではなく誰かのことを考える無限創造の世界-

これまで衛星から近赤外線光で生体電流や生体磁場への操作があったけれど、もう位相は変わったよ。自分のためでなければ、自らのイメージング次第で、現状でもエネルギーは無尽蔵なんだね!黄金比、フラクタル!

歴史を螺旋状に見る 「日本を救った豊臣秀吉」

日本を救った豊臣秀吉 - クール・スーサン(音楽 芸術 医学 人生 歴史)

 

日本を救った豊臣秀吉

切支丹の陰謀
 大航海時代のきっかけはヨーロッパの宗教改革である。従来のカトリックは新興のプロテスタントと衝突し圧迫を受け、巻き返しをはかるためヨーロッパを離れ、イエズス会を設立してアフリカやアジアなどで布教を目指した。
 イエズス会による布教活動は、スペインやポルトガルによる植民地政策の先鋒隊であった。地元住民にカトリックを信仰させ、その後に「神の名の下に」侵略を仕掛け、容易に植民地政策を達成するのあった。
 1549年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主・島津貴久の許可を得て布教活動を始めている。ザビエルは鹿児島から京都にかけて、山口の大名・大内義隆や豊後府内の大友宗麟らの保護を受けキリスト教の布教活動を続けた。なお当時のキリスト教は、キリシタン(切支丹)あるいは天主教と呼ばれていた。
 フランシスコ=ザビエルは2年ほど在日するが、この後もルイス=フロイスなどの宣教師が相次いで来日して、我が国に教会堂である南蛮寺や宣教師の養成学校や神学校を次々と建てた。
 ポルトガル船はカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかった。そのため南蛮貿易による権益から宣教師の布教活動を大名が保護し、さらには洗礼を受けてキリシタン大名となるものも現れた。
 キリシタン大名のうち、九州の大友宗麟大村純忠有馬晴信らは、イタリア人宣教師の勧めによって1582年に少年使節ローマ教皇のもとに派遣している(天正遣欧使節)。
 カトリックの教えは、ヨーロッパの進んだ文化へのあこがれ、あるいは信仰心を忘れて権益を求めて争う仏教勢力に不満を持つ人々の間で急速に広まった。その一方で、キリシタン大名大村純忠が信仰心のあまり自領の長崎をイエズス会に寄進する前代未聞の行為も見られ、カトリックに潜む日本侵略の野望は水面下で着実に広がっていった。日本が植民地になるかならないかの瀬戸際であった。

大航海時代のヨーロッパ
 戦国時代に当たる15世紀後半から16世紀にかけてのヨーロッパでは、ルネサンス宗教改革によって近代社会へと移行しつつあった。宗教改革によるカトリックプロテスタントの激しい争いや、イスラムの世界への対抗もあって、ヨーロッパの諸国はキリスト教、特にカトリックは布教や海外貿易の拡大を目指して世界へと乗り出した。この時代を大航海時代という。
 大航海時代の先頭に立ったのは絶対主義の王国を形成していたイベリア半島の王国であるスペイン(イスパニア)とポルトガルであった。両国は産業や貿易を保護して輸出を拡大し、国家財産の増大を目指し植民地の獲得に力を注いだ。もちろん植民地から富を搾取するためである。大航海時代という言葉は、大海原に新たな希望を見つけようとした良い印象を持つが、多くの住民が虐殺され、奴隷となった時代である。
 1494年、カトリックローマ教皇の承認によって、スペインとポルトガルとの間に、大西洋を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発見されるものはすべてイスパニアに属するという取り決めが結ばれた(トルデシリャス条約)。
 これは地球をスペインとポルトガルの二つに分割する発想であるが、この発想は白人至上主義による当然のことであった。そして両国は条約の取り決めを守り、着実に植民地化を進め、インカ帝国アステカ帝国は滅ぼされ、国民の生命や財産や文化は絶滅した。
 一方、東アジア地域では明が密貿易の禁止の政策をとっていたが、実際には明以外にも我が国や朝鮮・琉球・安南(ベトナム)などの人々が幅広く中継貿易を行っていた。ヨーロッパ人による東アジアの進出は、これらの中継貿易に参加して莫大な権益を得ようとする目的があった。

鉄砲伝来と南蛮貿易
 1543年、ポルトガル人を乗せた明の船が九州南方の種子島に漂着した。これが我が国に初めて上陸したヨーロッパ人である。領主の種子島時尭(ときたか)はポルトガル人が所有していた鉄砲に興味を示し、これを購入すると家臣にその使用法と製造法を学ばせた。
手先が器用だった鍛冶職人によって、鉄砲はまたたく間に複製され、やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され各地の戦国大名に売り込まれた。
 鉄砲の出現はそれまでの弓や槍、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの変化をもたらました。また鉄砲は雨が降ると使用できないため、雨の心配のない城の中での籠城戦に最適とされ、城の構築もそれまでの山城から平山城、平城へと変化した。
 ちなみにポルトガル人は鉄砲そのものを我が国に購入させる目的で、種子島にわざと漂着したとも考えられる。その野望は我が国で鉄砲が大量生産されたことで潰れたが、火薬の原料となる硝石が日本では生産されなかったことから、硝石を我が国に輸入することで貿易が成立した。
 我が国との貿易が大きな利益をもたらすことを知ったポルトガル人は、やがて毎年のように来航し、スペイン人も肥前(長崎)の平戸に来航して貿易を始めた。当時の我が国では、ポルトガル人やスペイン人のことを南蛮人と呼んだので、彼らとの貿易は南蛮貿易と呼ばれている。
 南蛮貿易では鉄砲やその火薬・香料・中国の生糸などが輸入され、輸出品としては銀、金、刀剣があった。貿易港としては、松浦氏の平戸や大村氏の長崎、大友氏の豊後府内(大分市)などの九州地方が中心であった。なお、ポルトガル人やスペイン人が南蛮人と呼ばれたのに対して、17世紀初頭の頃から来日したイギリス人やオランダ人は紅毛人(こうもうじん)と呼ばれている。

秀吉の対外政策
 国内の統一が進むにつれて海外との南蛮貿易も盛んになり、豪商や西日本の大名たちはこぞって海外へ進出した。秀吉も貿易での莫大な利益を目指して貿易に乗り出し、1588年に海賊取締令を出して倭寇を取り締まり、京都・堺・長崎・博多などの商人を援助して貿易の促進をはかった。
 当時は銀の産出が豊富で、秀吉は銀を活かして東アジアの諸国と貿易を行った。またこの頃、中国を支配していた明が衰え、世界情勢を見抜いた秀吉は、我が国を中心にしたアジアの新秩序を視野に入れ、台湾やゴアにあるポルトガル政庁、マニラにあるスペイン政庁に、我が国への服属と朝貢を求めた。しかし新秩序を構築しようとしていたのは秀吉だけではなかった、ポルトガルやスペインも同じ考えであった。
 秀吉は全国統一によって数十万の兵力や鉄砲を誇っていたが、その兵力をキリスト国家からの国内防衛につかうのか、あるいは明を植民地にしようとするキリスト国家に、先制攻撃を行うのか考えていた。巨大なキリスト王国との抜き差しならない戦いが、秀吉の目の前に迫っていた。
 南蛮貿易は大きな利益を生み出したが、同時にキリスト教も急速に広まっていた。布教を目指したカトリックは我が国に定着し、織田信長も貿易の権益を求めてカトリックを保護した。秀吉も当初はカトリックの布教を認めていたが、やがてカトリックに潜むスペインの世界侵略の野望に気づくことになる。
 1587年、島津氏を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックの宣教師が最新鋭の軍艦を準備して出迎えた。秀吉はその当時の我が国にはない軍艦に驚き、イエズス会による布教は我が国への侵略が秘められていると疑念した。さらに現地を視察した秀吉は3つの信じられない出来事を目にした。
 秀吉が九州に上陸して驚いたのは、外国への玄関口でもある重要な港町の長崎が、キリシタン大名大村純忠によってイエズス会に寄進されていたことだった。いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に委ねることは、天下統一を目指してきた秀吉にとっては有り得ないことであった。同時にその裏あるスペインの領土的野心にも気づくことになる。さらに秀吉を驚かせたのは、キリシタン大名の領地にある神社や寺がことごとく焼かれていたことだった。キリスト教一神教であり、キリスト教以外の神の存在を認めなかったが、秀吉にとっては我が国の伝統や文化を破壊する許せない行為であった。さらにポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷として強制連行している事実を知ったのである。有色人種を奴隷扱いするのは白人にとっては当然のことであったが、国民の生命や財産を守る義務を自覚していた秀吉には絶対に許せない行為であった。
 イエズス会とスペインによる侵略の野望に気づいた秀吉は、これらの事実に激怒すると、宣教師追放令(バテレン追放令)を出してカトリックの信仰を禁止した。イエズス会から長崎を没収して長崎を秀吉の直轄地にした。しかし秀吉は南蛮貿易そのものを禁止しなかったため、禁教政策は不徹底に終わりカトリックはその後も広まっていった。

サン=フェリペ号事件
 1596年9月28日、スペインの大型船「サン=フェリペ号」が土佐沖に漂着した。サン=フェリペ号は当時最大級の帆船で高速で荷を多く積めたが、安定性に劣り転覆事故を起こしやすい欠点があった。サン=フェリペ号は高価な荷を積んでフィリピンのマニラを出航しメキシコを目指して太平洋を横断しようとした。ところが東シナ海で台風に遭遇し、すぐに舵が壊れて操船ができなくなり、主マストを切り何とか難を逃れ、激しい風とうねりに身を任せ、日本の土佐に漂着した。
 突然の南蛮船の漂着に、土佐の大名・長宗我部元親は乗組員を土佐の浦戸に収容した。遭難者を救出したが、積み荷の所有権をめぐってトラブルが発生した。当時の国際海事法では積み荷の扱いは船側にあったが、秀吉は「漂着した積み荷の所有権はその土地に移るのが昔からの日本での習わし」と主張し、秀吉が派遣した奉行・増田長盛に持たせた書状は積み荷の没収を伝える内容だった。
 すると乗組員が増田長盛に「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると次に軍隊を送り、信者に内応させてその地を征服する」と、世界中のスペイン占領地域を誇らしげに示したのである。日本征服のためにスペインは宣教師を送り込んだことが、すぐに秀吉に報告された。
 キリスト教の日本征服を恐れていた秀吉は、それまでの疑心暗鬼から確信に変わった。さらに京都の3人のポルトガル人が「スペイン人は海賊で、ペルー、メキシコ、フィリピンなどを武力制圧したように、日本を征服するために測量に来た」と証言した。秀吉への証言者はポルトガル人で、スペイン人との競争相手だった。船が種子島に漂着して以来、50年間にわたり日本と交易してきたのはポルトガル人である。その意味からすれば、遅れて出てきたスペインは商売仇であった。秀吉はポルトガル人の証言を聞いて激怒し、京都のフランシスコ会宣教師と信徒を捕え、再び禁教令を公布した。

禁教令と処刑命令
 漂着事件直後に禁教令が公布され、京都では南蛮寺などの布教施設が壊され、京都にいたキリスト教フランシスコ会の宣教師や信者が逮捕された。イエズス会ではなくフランシスコ会の信者だったのは、イエズス会は日本の文化や伝統を尊重する大名などに浸透していたが、フランシスコ会は貧しい階層に入って活動していたので、秀吉にはより挑発的に見えたのである。
 イエズス会ではなく、京都のフランシスコ会に的を絞った逮捕であった。カトリックにおいてイエズス会フランシスコ会も大きな違いはない。つまりキリスト教そのものへの信仰を禁じたのではなく、日本を脅かすような過激なフランシスコ会を見せしめに弾圧したのである。日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が逮捕された。
 秀吉は処刑を命じるが、処刑場は長崎で、長崎の刑場までの1カ月間、死への旅路となった。逮捕された24人は京都の一条戻り橋で全員、左耳を切り落とされ、血に染まった傷口のまま京都を引き回された。午後10時過ぎの深夜にもかかわらず、外国人の引き回しということで沿道には多くの人だかりができ屋根の上から見る者もいた。翌日には大坂と堺でも引き回された。堺が選ばれたのは、当時の堺は南蛮貿易で栄え、多くの外国人やキリシタンが集まっていたので彼らへの見せしめであった。長崎の刑場に着いた時には、長崎には外出禁止令が出されていたが4千人以上の信者が取り囲んだ。
 刑場には26人の十字架を立てる穴が用意され、穴の前に十字架が1本ずつ置かれた。刑場内で縄は解かれたが、横たわる十字架上に鉄枷(かせ)で手足を、縄で首と胴を固定され、十字架は穴の中へ入れ立てられた。受刑者の間から「イエス、マリア」の声が響いた。整然と並んだ十字架の両端には4人の執行人が槍を持って立ち、2人1組で左右から刺し、ひと突きで槍の先が心臓を貫き息絶えた。
 26人のキリスト教徒への処刑が行われたが、キリスト教徒に対する改宗などの強制政策は取られず、京都のフランシスコ会以外に弾圧は加えられていない。キリスト教は建前上は禁止だが、お目こぼしを受けていた。フランシスコ会の活動が目に余ったために秀吉が弾圧に踏み切ったので、イエズス会は何ら弾圧は加えられていない。
 秀吉はキリシタン26人を逮捕したとき、キリシタンを続けたいなら外国へ、日本に残りたいなら改宗しろとせまった。しかし長崎のイエズス会はこの26人の死罪を長崎奉行に申し出たのである。イエスズ会にとって、信者を十字架になぞらえて見せ物にして天国に行くことができると宣伝すれば、キリスト教徒の栄光に輝く姿を印象づけることができた。キリシタン弾圧といいながら、イエズス会フランシスコ会つぶしであった。

秀吉の愛国心
 秀吉はスペインによる侵略の野望を知るが、我が国は数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を持ち、スペインが我が国を侵略することは難しいと考えていた。そこでスペインは我が国のキリシタン大名を利用して明を征服し、次に我が国を攻めるだろうとした。つまりスペインが明を滅ぼせば、次は日本を狙らってくると予想したのである。
 これは鎌倉時代元寇と同じである。秀吉にとって明がスペインによって征服されるのを黙って見ているわけにはいかなかった。スペインは日本侵略の前に明を攻めようとしているが、明を攻めるには兵力が不足していた。多数の兵を地球の裏側から連れて行くことができなかった。
 我が国は兵力や鉄砲は充実していたが、外航用の大きな船を建造する能力がなかった。そのため秀吉はスペインと我が国が同盟を結び、両国が共同して明を征服し、戦後は明国内でのカトリックの布教を許す代わりに、スペイン所有の外航用の軍艦を売却してもらう条件でスペインとの妥協を目指した。しかし武力による我が国の侵略を断念していなかったスペインはそれを拒否した。
 秀吉はスペインよりも先に明を征服してしまう以外に、我が国がスペインの植民地から免れる方法はないと覚悟を決めた。数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を投入すれば中国征服も可能とした。
 秀吉のこの決断は、天下統一により領土獲得の機会を失い、力を持て余していた兵士たちに好意的に迎えられた。秀吉は明の征服を「唐入り」と名付けた。日本には明へ直接攻め込める大きな船の建造能力がなかったため、地理的に近い朝鮮半島を経由して攻め込む以外に方法がなかった。
 秀吉は対馬の宗氏を通じて、当時の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出したが、李氏朝鮮は明を宗主国と仰いでいたのでその要請を拒否した。そのため、秀吉は明を征服する前提として朝鮮半島から攻め込んでいった。これが1回目の朝鮮出兵である文禄の役である。

文禄の役
 1591年8月、秀吉は「唐入り」の決行を全国に布告し、出兵拠点となる名護屋城肥前に築き始める。1592年3月、明の征服と朝鮮の服属を目指して、宇喜多秀家加藤清正らが率いる16万の軍勢を朝鮮に出兵させた。初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したため戦況は膠着状態となった。
 李氏朝鮮の名将である李舜臣(りしゅんしん)の活躍があり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれ、多くの兵が飢えや寒さで苦しみ、戦局は不利になりやがて休戦となった。その後、我が国と李氏朝鮮や明との間で和平交渉が行われた。
 しかし1596年に明が「秀吉を日本国王に封ずる」という内容の国書を秀吉に送り、秀吉が怒り返した。「日本国王という呼び名は、日本は明の家来を意味している。なお朝鮮は朝鮮国王で、これは朝鮮が明の家来であることを自らが認めている」ことを意味している。

慶長の役
 怒った秀吉は、翌1597年、秀吉は小早川秀秋を元帥に14万人の軍を朝鮮へ再度出兵させた。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると、2か月で慶尚道全羅道忠清道を制圧した。京畿道に進出後、文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築いて城郭群を補強した。
 城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を城郭群に残し、7万の将兵を本土に帰還させた。秀吉は1599年にも大規模な軍事行動を計画したが、計画実施前に秀吉が死去したため休戦となり我が国は朝鮮半島から撤退した。
 秀吉の二度にわたる朝鮮出兵は、当初の「唐入り」の目的を果たせず、朝鮮半島へ多大な影響を及ぼし、我が国にも多数の損害をもたらした。この秀吉の朝鮮への出兵について「理解不能な最大の愚行」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想・耄碌」といった扱いを受けることが多い。しかしスペインが明に攻め、次に我が国に侵略するのを防ぐためであった。明への先制攻撃であったが、その前提として朝鮮半島に攻め込んだのである。
 秀吉の出兵によって大きな被害を受けた朝鮮半島の人々の恨みは今も深く、文禄の役壬辰倭乱(じんしんわらん)、慶長の役は丁酉倭乱(ていゆうわらん)と呼ばれ、秀吉は「冷酷無比な侵略者」として、現在でも悪魔のように嫌われている。しかし秀吉が朝鮮半島へ攻め込んだのは、李氏朝鮮が我が国の方針に反対したからで、もし李氏朝鮮が我が国の「唐入り」に協力していれば、秀吉から攻めることはなかった。
 秀吉の目標は明を征服することで、朝鮮半島を侵略する意識はなかった。そのため秀吉の行為を「朝鮮侵略」と呼ぶのは歴史的に正しいとはいえない。「朝鮮侵略ではなく朝鮮出兵」と表現すべきである。また秀吉に対する評価についても、朝鮮半島の人々の思いを受け止める一方で、世界史の原則「ある民族にとっての英雄は、他の民族にとっての虐殺者である」という視点を認める必要がある。
 朝鮮半島の人々から見れば、秀吉は確かに侵略者であるが、その一方で、我が国にとっては天下統一を果たした英雄であり、戦国時代を終わらせ世に平和をもたらした恩人でもある。秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり、滅ぼされたりした民族が大勢いることを忘れてはいけない。
 国にはその国の歴史がある以上、他国の歴史認識を一方的に間違いと決め付けることはできないが、我が国が他国に対してへりくだってまで、他国の歴史認識に合わせる必要はない。我が国の立場を説明すべきである。秀吉による朝鮮出兵に限らず、他国の感情に理解を示しても、我が国の立場で堂々と歴史認識を持てばよいのである。我が国の教育においても当然そのように歴史を伝えなければならない。
 豊臣家には後継者の不在という致命的な欠陥があったため、朝鮮出兵は結果として失敗に終わった。しかし明治維新のときも同じであるが、日本をヨーロッパの属国・植民地にさせないという意気込みは高く評価すべきである。

日本滅亡の危機
 秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、スペインは明国を植民地としての支配下に置いたであろう。朝鮮半島もスペインの支配地となったことは南米を見ればわかることである。南米には白人種と混血人しかいない。アルゼンチンやウルグアイでは先住民族は抹殺され、現地の女性たちは強姦され、子を産む前に殺戮されている。いま南米に住んでいるのはほぼ白人種である。ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアでは全員が先住民族との混血で純血種はほぼいない。
 日本も支那も朝鮮もそれぞれが純血種を保ちながら現在に至っているが、それは秀吉がスペインと戦う姿勢を明確に見せたからである。秀吉の死去により日本は朝鮮半島から撤収したが「呆けた秀吉が起こした侵略」との解釈は大きな間違いで、半島に出兵した大名たちはそれぞれが真剣に戦ったのである。
 日本が撤収したのは、スペインが英国やオランダに押されて国力を低下させ、アジアに進出できなくなったからである。スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ「スペインよ、自分に従え」と迫った秀吉の壮大な気概と誇りを見習うべきである。