「常陸の国風土記 -ある島での少年と少女のやりとり-」


本義だけが意味を成し、本義のみがクローズアップされますように


歴史を鑑みる 「キリシタン大名が50万人の日本娘を奴隷に売却→打ち首」

http://sound.jp/sodaigomi/dorei/amakusa/amakusa.htm

キリシタン大名が50万人の日本娘を奴隷に売却

さて これが本題です。

  豊臣秀吉が宣教師追放令を出した理由は、スペインやポルトガルが日本を植民地化する下心を持っており、
 宣教師がその先兵になっているということを知ったためだと、
 中学校ぐらいで習い、今に至るまでそれぐらいの認識しかなかった。
しかし、もう一つの理由としてキリシタン大名による日本人女性の
大規模な奴隷輸出が、あったということを初めて知った。
 現代の私たちは、高山右近らに代表されるキリシタン大名は、
 一般の日本人より高い倫理性を持っていたようなイメージを持っているが、
 日本人女性の奴隷輸出というおぞましい一面を持っていたのだ。
 倫理観というのは時代とともに変遷する。
 現代の倫理観を基準に当時の人々を批判するのは、慎重にすべきかも知れないが、当時でさえ、
 秀吉や少年遣欧使節の少年らが、このキリシタン大名らの奴隷貿易を批判の目で見ていたとすれば、
 当時との日本人としても、唾棄(だき)すべき事だったのではないだろうか。
  ただ、近世に至るまで西欧ばかりでなく、アジアでも奴隷貿易が行われていた。
 特に西欧列強によるアフリカからカリブ諸島、北米大陸への奴隷貿易は大規模で、
 列強が繁栄を築く一つのいしずえにもなっている。
しかし、それは、他国の人間を商品として売買するのであって、自国民を売り飛ばす訳ではなかった。
キリシタン大名が「自国民」を奴隷に売り飛ばすというのは、どういうことだったのだろうか。
それほど、日本人の民度は低かったのだろうか、それとも、キリスト教に改宗し、
 神の国への復活を願うキリシタン大名らにとって、改宗しない日本人は、もはや自国民では、なかったのだろうか。
 現代の北朝鮮の日本人拉致にも、つながる要素が含まれているのだろうか。
 皆様のご意見をぜひ、お聞きしたいと思います。
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 <以下は引用コピー>

◆鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(平成十六年十月刊、自費出版)P249~ P282より

徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
 『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に
運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、
わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、
 交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、
その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
 肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
 鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、
 白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

 日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。
しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、
 火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。

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 <引用開始>
 コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html
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  天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。
その一条の中に、ポルトガル商人による日本人 奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。
 日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。
 付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。
 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」
 (伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

  日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した
1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。
16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、
1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、
 世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
 「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
 「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、
 世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、
みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」
といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
  秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、
 「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、
そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。
 南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、
 実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、
 秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。
 秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、
それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。
 「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。
 「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、
 手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、
 生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、
 当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
  ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、
 子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。
 秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。
 検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
  しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。
その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--
 奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、
このエピソードからも十分に推察ができるだろう。

私や他の方の意見

 中世 アフリカ沿岸 中南米 カリブ海沿岸でもポルトガル スペイン人が奴隷売買をしていた、とあります。
ポルトガル スペインは国技で奴隷売買を世界中でやっていた?、、
 彼らの他国への侵略 植民地政策は奴隷狩が目的だった。キリスト教布教は隠れ蓑だった。

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十字軍の少年兵が奴隷として売られた話がありましたが、
 日本人が奴隷として売られたとは、驚きです。
 歴史の教科書に記載がなかった気がします。

  少年十字軍もそういえば、奴隷に売り飛ばされてしまったのですね。
キリシタン大名によって、日本人が奴隷に売られた話は、
 教科書にも小説にもまったくと言ってよいほど、出ていませんね。
あまりに非人間的過ぎて、題材として扱いにくいのでしょうか。

 本当に恐ろしい話ですね。人間は神の心と悪魔の心を合わせ持った存在だといいますが、
それにしても秀吉の時代のキリシタン大名の仕業は悪魔以上ですね。
 日本人はキリスト教に良いイメージを持ちすぎているかも知れません。

エルサレムを占領した十字軍は、イスラム教徒に対して本当に悪魔としか言いようがない残虐行為を行っています。
 十字軍は「異教徒を大勢殺すほど、神の御心にかなう」と信じていたそうです。
 現代の取り澄ましたキリスト教のイメージとは、大違いです。

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情勢

ザビエルの来日によって布教が開始されたキリスト教は、
 拠点を西南九州に移してから徐々に勢力を伸ばしていった。
 西国の大名たちが、軍資金や軍需物資を獲得するため領国内にポルトガル船の入港を望み、
 宣教師たちの布教を許可したことが大きな要因であった。
 肥前大村純忠キリシタンに理解を示すことで、当時、平戸でトラブルを起こしていたポルトガル船を
自国内の横瀬浦に寄港させようと考え、1563年(永禄6)に受洗して
初のキリシタン大名となり(洗礼名バルトロメウ)、長崎をイエズス会に寄進した。
このあと、九州では78年(天正6)に大友宗麟(フランシスコ)、
80年(天正8)有馬晴信(プロタジオ)が受洗した。
 一方、キリシタン畿内にも浸透していくが、当初は大名の保護を得られず、
 民衆への布教から開始された。
しかし64年(永禄7)頃、三好長慶松永久秀の家臣たちが日本人宣教師ロウレンソの説教を聞いて入信したのを契機に、
 高山友照(ダリオ)・右近(ジュスト)父子も受洗し、
その後小西行長(アウグスチノ)、蒲生氏郷(レオン)、織田有楽斎ジョアン)、黒田如水(シメオン)・長政(ダミアン)らも入信した。
 彼らの保護でキリシタンは大いに普及したが、
87年(天正15)豊臣秀吉バテレン追放令以前に大村、大友の両大名は死亡し、小西行長関ヶ原の戦のあと刑死、
 高山右近はマニラに追放となって、ついにキリシタン大名は絶えてしまった。
キリシタン大名は家臣や領民の統制をはかるために神を絶対視し、
 神社仏閣を焼き払ったために領民や諸大名たちから反発を受けたが、
こうしたことが原因となって禁教令が促進されたともいえよう。

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私の意見

 何故 大名たちがキリスト教に入信したのか?
それに見返る莫大な密貿易による利益があったのではないか?
 輸入するものは 鉄砲 火薬である。
しかし当時日本から輸出する主な産業品はなかった。
それでは何故 交換貿易が成立したか?
 日本から輸出したのは若い娘である。

この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃からポルトガル スペインの奴隷貿易航路になっていたのです。

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情勢

  戦国時代の末、キリシタンが伝えられた頃の島原半島は、高来地方と呼ばれ、有馬氏が支配していた。
  1563年にキリシタンの布教が始まり、有馬の大名ドン・アンドレア有馬直義、
その嫡子ドン・プロダジオ有馬晴信が洗礼を受けてキリシタン大名となったので、
 家臣や領民の多くがキリシタンになり、島原半島一円にキリシタンが広がった。
  中央では5年後の1568年に織田信長足利義昭を奉じて入京し、
 信長の天下統一が始まると言う時代であった。
1580年には北有馬の日野江城下に、セミナリオと呼んだ、
 現代の中学と高校を合わせたようなキリシタン学校も設立されて、
 島原は長崎と並ぶキリシタン文化が栄えた所となるのである。

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キリシタン大名有馬晴信
  晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊 し、
 仏教徒の目の前で放火したりした。またキリシタンと僧侶 の間に争いが起きると、
 晴信は僧侶を処刑すると脅し、財産を 没収した。
 領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超 える人々が改宗したという。  
 晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、
インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。

つまり奴隷狩です。

 同時期のヨーロッパでは、1618年から1648年まで、ドイツを 舞台にして周辺諸国を巻きこんで
 プロテスタントカソリック が戦った「30年戦争」が起こった。
いわゆる宗教戦争の最大 のもので、戦場になった地域では敵宗派の住民の虐殺、暴行略 奪、住居の破壊などで
人口の30パーセントから90パーセン トが失われたという。
こうした悲惨な経験から、ヨーロッパで は、信教の自由と政教分離といった近代的概念が成立していく

秀吉は、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキ シコやフィリピンのように、
 我が国を侵略する野望を持ってい るのではないかと疑い始めた

宗教の名で他民族を侵略する。8回に及ぶ十字軍の遠征と同じです。
 十字軍の遠征については 今 まとめていますから後ほど 掲載します。

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国家の独立を守る戦い

 家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリ シタンびいきで、
 大阪城にこもって、スペインの支援を受けて 徳川と戦うという事態であった。
 当時の大阪城内には、宣教師 までいた。
 大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、
キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放して いる。  
1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、
さらに1637 ~38年のキリシタン勢力による島原の乱をようやく平定した翌 39年に、
ポルトガル人の渡航を禁じた。
これは鎖国と言うより、 朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、
 正確には キリシタン勢力との絶縁と言うべきである。
この場合 キリシタン勢力とは日本を植民地化しようと狙ったポルトガル スペインのことである。

[4]  キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を立て ることと、
 日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を破壊して唯一 絶対のキリスト教を広めることは、
ともに「人類の救済者」 としての疑いのない「善行」であった。

その独善性を見破った 秀吉や家康の反キリシタン政策は、国家の独立を守る戦いだっ た。
これが成功したからこそ、我が国はメキシコやフィリピン のように、
スペインの植民地とならずに済んだのである。
 過去に同じ事例で元寇があります。
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他の方の意見

  今回の『キリシタン宣教師の野望』とても興味深い内容でし た。
 今までキリシタン宣教師がこのような考えを持って、日本 に来ていたなんて知りませんでした。
  こういった話 にはとても興味を持っています。
しかし、私の周りを見る限り こういった話を共に語り合うことができる友人は1人か2人し かいません。
 私がこういった話をするとみんな引いてしまいま す。
みんなびっくりするほど無関心で戦争のことについてなど まったく知らないのです。
 私は戦争についての知識が多少ある ので、クラスでは戦争マニアで通っています。
  それほどまでにみんな知らないんです。
どうしてみんなはこ れほど無関心なのでしょうか?
それとも私がおかしいんでしょ うか?時々疑問に思います。
 正しいか正しくないかは別にして こういったことをみんなで討論し合うことは、とてもすばらし いことだと思います。
そして、多くの人がこういう知識をもつ べきです。

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幕府軍は戦後、原城を徹底的に破壊した。 島原藩松倉勝家は乱を引き起こした責任から、
 大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられた。

 松倉勝家は幕府により打ち首になりました。とあります。
 処刑としても普通は武士階級は切腹ですが 打ち首は異例ですな。