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sangolowさん

大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった(→三角貿易)。

地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後人道的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。

ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易(英語版)は、1441年にポルトガル人アントン・ゴンサウヴェス(英語版)が、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルエンリケ航海王子に献上したことに始まる。

1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人で黒人ではない。

1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。

教皇就任1447年3月6日
教皇離任1455年3月24日

1452年、ポルトガル王アフォンソ5世に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。
さらに1455年には教皇教書「ロマーヌス・ポンティフェックス」を出し、異教徒の土地と物品を所有する権利をポルトガル王に独占的に認めた。

奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人

大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。
(中略)
1450年代に入ると(中略)地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。
その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って収容し、それをさらに船に売り渡すという形式のみとなる。

堕落したカトリックを救済・再建する目的で一五三四年に設立されたイエズス会は、世界の異端者と戦うための軍隊型組織を持つ布教の〃先兵〃として、ポルトガルの支援を受けて常に最果ての地に向かった。

その目標の東端が日本であり、西端がブラジルだった。

日本の場合

16世紀から17世紀にかけての日本は大航海時代を迎えて列強となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。

海に面した各地の諸大名が渡来する外国船から火薬などを調達し、(中略)日本からは輸出品:硫黄、銀、海産物、刀、漆器、そして日本人も奴隷として輸出されていた。

鉄砲や火薬の大きな需要を作り出しただけでなく、教会は宣教事業を大名たちに保証させたし商人は利潤の上がる奴隷売買にまで取引を広げていくことができた。
その結果として、彼らは東アジア地域の奴隷市場の拡大とその移送ルートの確保を見事達成した

ポルトガル商人はイエズス会の宣教師を介して対立する大名間の戦闘には鉄砲などの物資を一方に提供する手法でその軍事的バランスを巧妙に操っていた。
有馬や大村、大友のキリシタン大名がまさにそれである。

1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えた。

日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。

1587年(天正15年)7月24日、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについて詰問、即日奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を発布した。

このとき各地に駐留していた外国人の日本人妻や混血児たちの中にも海外に追放され、奴隷となった者もいたとされる。

※但し個人の信教の自由はまだ守られています。

コエリョは実はキリシタン大名を糾合して豊臣政権を打倒し、日本人を先兵に、中国へ攻め込む野望を抱いていたとされる。

コエリョは86年、大坂で豊臣秀吉に面会し、「中国へ攻め込むご意志があるなら、ポルトガル領インドから援兵を送らせましょう」と言い放った。

怒った秀吉がコヨリエにたたきつけた五箇条の概略

1、なにゆえに秀吉の臣下をキリシタンにしたのか
2、なにゆえに宣教師は教徒(キリシタン大名をさす)に神社仏閣を破壊させたのか。
3、なにゆえに仏教の僧侶を迫害するのか
4、なにゆえにお前たちは耕作に必要な牛も屠殺して食用にするのか
5、なにゆえにお前たちはお前の国民が日本人を購入し、奴隷としてインドに輸出するのを容認するのか



日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
已上

天正十五年六月十九日

— 吉利支丹伴天連追放令

それまでの状況はどのようなものだったのか

「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、日本人奴隷を売買した公正証書がのこされている」(百六十五頁)

中隅哲郎『ブラジル学入門』(無明舎、一九九四年)
「(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった」(百六十四頁)

1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。

「行く先々で同じ日本人が、数多く奴隷にされ、鉄の足枷をはめられ、ムチうたれるのは、家畜なみで見るに忍びない」と言い、「わずかな価で、同国人をかかる遠い地に売り払う徒輩への憤りはもっともなれど、白人も文明人でありながら、なぜ同じ人間を奴隷にいたす」

有馬のオランダ教科書にその文が使用されていますがミゲルを名乗った有馬晴信の甥の清左、マンショを名乗った大友宗麟の甥の祐益らは…

「われらと同じ日本人がどこへ行ってもたくさん目につく。また子まで首を縄で繋がれて我々を見て、哀れみを訴える眼差しは辛くてならぬ・・・。肌の白いみめよき日本の娘らが、秘所をまるだしに繋がれ、弄ばれているのは、奴隷らの国にまで、日本の女が転売されて行くのを正視できるものではない。我々の見た範囲で、ヨーロッパ各地で50万と言うことはなかろう。ポルトガル人の教会や師父が硝石と交換し、証文をつけて、インドやアフリカにまで売っている。いかがなものだろう。」

大村純忠のさしむけた少年マルテー

1603年の 記録には、『 インド人民の王・スペイン国王フェリッペ二世陛下の城を 守っているのは、白人の五,六倍もいる 日本人奴隷で、好戦的な彼らは 鉄砲を持ち 土民を 撃退しています。』とある。

16世紀の後半には、ポルトガル本国やアメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまでも日本人奴隷は売られるようになり、天正10年(1582)に ローマに派遣された天正遣欧少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃して驚愕し、その会話が記録に残されている。

「今までに行われた売却は、日本司教の書面による同意を得て行われた。(中略)彼ら(日本人)は非常に好戦的な国民で、戦争のためや、攻囲にあるいは必要に際して奉仕をする。少し前に、オランダ人たちのためにその必要が生じた際に見られた通りである。ゴア市から1 人の妻帯者 が、鉄砲と槍を持ったこれら従者7、8 人を従えて出征した。というのはインディアにおいては、兵役を果たすことの出来る奴隷は日本人奴隷だけだからである。ゴアの如き大都市では、その城壁の守りのために必要な兵士に不足することがしばしばあるのだ。

(1605 年、ポルトガル公文書148・「大航海時代の日本」高瀬弘一郎訳註)

こうした日本人の奴隷(建前は傭兵)は、ヨーロッパ市場より格段に安く買い取ることが出来たため、(それこそ牛馬以下の安値で取引されていたので)ポルトガル人はアジア地域の奴隷貿易でも莫大な転売益を上げることができた。

絵の注釈には「日本人傭兵がお金持ちを大虐殺している」とある。
日付も1621年5月8日。

『 後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を 男女問わず 数百人ずつ 黒船が買い取り、手足に鉄の鎖を付け 舟底へ入れて運び去るは、地獄の 責め苦にも まさって、むごい有様である。』

キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに 女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って 船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま 地獄のごとし 』。

徳富蘇峰の 『 近世日本国民史 』
豊臣秀吉の祐筆・大村由己の 『 九州動座記 』

「敬虔王」(Piedoso)
「ジバングは火薬一樽と交換に、50人の奴隷を差し出すのだから、神の御名において領有することができたら、献金額も増すことができるでしょう。」とローマ法王庁に進言。

 

 

追放例以後

1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス(Don Pedro Martins)はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。

やがて秀吉に変わった徳川家康によって南蛮貿易は朱印状による制限がかかり(朱印船貿易)、さらに鎖国に踏み切ったことで、外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限することになった。日本人の海外渡航と外国人の入国も禁止され、日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。

何が真実かはわからない、しかし…

太平洋戦争に敗れた私たちは、戦勝国が善なる国であり、敗れた日本は悪なる国であるといった戦勝国に都合のよい歴史教育を強要され、いまだにその影響は残っている。