「常陸の国風土記 -ある島での少年と少女のやりとり-」


本義だけが意味を成し、本義のみがクローズアップされますように


1997/12に死んでから、

身体で感じる五感は、人間の身体があるからこそであり

犬ならすべて緑色に見え

ハエなら複眼で物質世界をみてる

そう考えると共通にあるナニカ(本質)は、それそのものとしてあるのであり、それを直観して生きていくことに意識を置いていた時期があったし、今はあんまり意識しないが、この世を身体で感じるものとしてはみていない。しかしあまりに傾倒すると虚ろになる。

老子ではないが、

その頃、生を感じる瞬間は、性のエクスタシーの一瞬のみに存在するというSEXグノーシスみたいな閃光〜普通にいうと酷いありさま〜 体が腐っていくような自らを経過したこともあり、そういうときになにもいわずに近くにいてくれた人には感謝するよね。気が付く気がつかない関係なく。

アキバで言うと、社会感覚持ち込まないヨウジョに類するのだが 

あまり理解示したこと言うと、寄ってくるので、それとこれは別にしたいので、本質的には「それが普通という暴力」に対して

もう俺は違っちゃったんだよ。死んでから、なんて行っても通じないので

その状態は、視点からセカイの住人になり、赤子のようなわがまま受け入れさせ愛を知り、

2004ウメムラの件でホワイトホールになって終わった

元ネタとは邂逅した

邂逅は、自らの生まれる以前に遡り、相手を知り、どこにも責任がないことを認知し、自らの責任で今という状態で輪廻切りした