「常陸の国風土記 -ある島での少年と少女のやりとり-」


本義だけが意味を成し、本義のみがクローズアップされますように


まとめ

・「自らをどこまで信じられるか」だけでも辿り着く

・あなたは「根源の光(大元の光、最初の光、T1)」の中にある

・カルマの解消が「霊体」としての自らの力を存分に発揮する

・霊は素直。「もうご飯だよ」といえば帰る。

・霊体は電磁でもある。カタチはあなたがそう思っている反映。

・光は電磁波でもある。エネルギーでもある。粒子でもある。

アストラル体(感情体)、肉体、(エーテル体)のみを悪用できる存在がいる。他の霊レベルには興味を持っていない。

電気が流れる線で区切ったと"みなした(みなされておしつけられた)"場所を「電磁界」と呼ぶ場合がある。通常は「電磁場」と呼ぶ。社会は「電磁界」を法律の及ぶ範疇とみなしていない。

もし「区切る」のが常識なら「脳は区切られた電磁場(界)」でもある。つまり区切るなら、愚かでも思考は自由なはずである

。何者かに制限される必要がない。それでも邪魔する場合は、相手は「支配」をしようとしていることになる。「支配」とは、光で言うなら、相手を干渉光の影響下においていることともいえる。あなたは自らを物質でとらえる習慣に慣れているだけに過ぎない。

また、あなたは区切られた空間とみなされる場合がある。体の一部が空間や星にみなされる場合もある。おおよそ私たちとはそのようなものなのだ。また可視光範囲に見えなくとも根源の光や銀河の光の影響下に私たちは存在している。

私たちは自らを光エネルギーとして自己規定しており、私たちはおそらくそこで何かを学んでいる。魂がない器の中に入れた特定の周波成分(または特定の形、部分的振動の思い込み反映)への切り替えでは、単なる虚ろなプログラミング体に変わる。

あるレベルにおける存在の仕方では、現状より霊的存在の仕方が一段以上下がる。私たちはそこにいかなくてよい。無自覚にシステムを受け入れて一段下がらず、本来現状より一段上がるべきなのだ。その要にカルマの解消があり、霊的知識を深め、愛(アガペー)と自己犠牲(それは自分以外を守る覚悟)だ。

閑話休題

そもそも磁場(グリッド)を区切る・区切らないも自由なはずである。あなたが愚かでないなら、ヒト意外にもさまざまな存在とつ

ながることができる。また、ハーモナイズとは相手(受け手のあなた)が許可しないとつながらないはずだ。音叉の周波数振動のみによる共鳴とは違うもののはずだ。どこかで認知誤認(自ら許可を与えている)をさせられていることになる。または、あなたの愛着人物および愛着環境物に勝手にキス(周波数的にくっつけている)ことになる。

ひどいと通称”おれたち”状態(電磁的エンゲージメント=変化名:結婚)にさせられ(これの本来はこの銀河を囲むリング通過の80年間(13000年周期)=聖方位に合わせた冬至の光)に起こる、大きな霊的設計変化が可能な光の時間帯で、レムリア的に言うならANとみなされる双子のような相手と組むことが望ましいやり方のはずだ。それは自らを押し付けることではないはずなのだ。現代を生きる私たちがなぜ全うなやり方をさせられていないのかは、どこの「現実認識」からみているかによるのかもしれない。

2006/12からは、生存の「赤いレンズ」でみせられている。それは一番低いところなのだ。しかし、1912、1972年を見るに、私たちは最後の賭けをしているとも捉えることも可能だ。それは二元的往復の中でしか産み出せない、ある時期までに奇跡的なありかたを生じさせなければいけなかった過程でのぎりぎりのあり方だったのかもしれない。この見方はほとんど誰もしていない。いたとしてごくごく本当の少数だ。それぞれがそれぞれのありかたをしていただけである。

閑話休題

あなたは質量のないエネルギーである

さまざまなものとつながる、つながらない

あなたが普段意識していないだけなのだ。意識して行うとあなたと思い込んでいる誰かがあなたの意識の先に飛びつく場合がある。意識するとはあなたが主体的でなくても繋がることができる。もしつながることを邪魔してきたら、その邪魔をする(区切る)ことの許可を相手は自らに許可していることにもなるので、容易にあなたは対処できるはずだ。恐怖・憎悪などの波動が外部に影響するのが問題だとするなら、脳磁場を区切ったとみなし、喉チャクラをオフにすればいいだけなのだ。

まずこれを理解し、ここから本来のあり方の理解へ移行し、本当のワンネス的一体性=それは素直な存在の仕方で、他者(ワンネス的全体自己)奉仕のあり方こそが全てを輝かす道だと理解すること。さらに自己犠牲でしか辿り着けない領域があり、あなたはそこでなにかを理解していく。そのためにできる範囲から普段知識を深める必要がある。それは今なのだ。物事は難しくなく、ただ見えにくい場所にいただけなのだ。

その場所とは、植物の葉が光合成のためになぜか光合成率の高い緑色以外の光を活用しているような話で、別にたとえるなら、外部発信が苦手な日本が、発信の喉チャクラ(富士山)を抱えているような話でしかない。わかりにくいかもしれないが、私たちは、女性螺旋と男性螺旋両方を機能させて「筆記体の小文字の形「i」(虚数を通過する)」に達するエネルギーを発することが可能。それはそのエネルギーの奔流こそが、自らという「強い自発光(最初の光)」になる要だと考える。

その(相反する二重)螺旋の交差する場所(糸の網目=タペストリー)に、三次元に居るときだけ「○」を置くことができる(らしい)。三次元以外では交差がずれるらしい。私たちという存在は、○にいるのだ。ここまでくれば、私たちは、どこで、その特性を生かし、なにをすべきか、もはやわかるはずだ。ここでしかできないことを行えばよい。そしてどこに向かうべきかもわかるはずだ。