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2013年01月30日15:00
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- 世界史
1 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 15:27:17 0
一時期は東アジアの覇者として宋を圧倒した
勇壮なる騎馬民族、契丹族とその王朝及び王族・子孫を
語りましょう。
2 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 15:31:12 0
なお、契丹は英語において「Cathay」となり、航空会社の「キャセイ・パシフィック」はこれに由来するのは余りにも有名。
支那・欧米中心史観は死ねばいい。
124 :世界@名無史さん 2008/04/22(火) 17:26:55 0
>>2
ヘー
一時期は東アジアの覇者として宋を圧倒した
勇壮なる騎馬民族、契丹族とその王朝及び王族・子孫を
語りましょう。
2 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 15:31:12 0
なお、契丹は英語において「Cathay」となり、航空会社の「キャセイ・パシフィック」はこれに由来するのは余りにも有名。
支那・欧米中心史観は死ねばいい。
124 :世界@名無史さん 2008/04/22(火) 17:26:55 0
>>2
ヘー
元スレッドタイトル: 【草原の】契丹族とその王朝・王家【支配者】 元スレッドURL: http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1157005637/l50 |
5 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 20:27:54 0
契丹というか遼の天子や官人はやはり胡服辮髪してたの?
それとも漢風だったの?
細かい事だけど王朝のイメージとして重要だと思う。
6 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 20:34:10 0
太祖や太宗の頃は純遊牧国家だったので胡服辮髪していたけど
聖宗の頃には宮廷儀礼その他も漢式になっていた。
7 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 20:48:17 0
これも有名な話だけど、金朝は
モンゴル語では「キタドのアルタン・カン」、ペルシア語の資料でも「ヒターイーのアルターン・ハーン」
と呼ばれていて、モンゴル帝国が登場してくる頃にはすでにキタイ(モンゴル語等の複数形がキタド)は
地域的な名称になっていた。
> 契丹というか遼の天子や官人はやはり胡服辮髪してたの?
基本的にそんな感じだったような話が。唐王朝の官服も基本的に禿髪部というかソグドとか突厥の連中の
着ていた物そのものだそうだから。弁髪に冠、胡服というとウイグル王国の壁画の王侯像に感じが近いかも
知れない。ウイグル王もモンゴルと同じで君主の冠は金製だったらしいが。
8 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 20:53:41 0
第六代の聖宗皇帝は諱の一名を「文殊奴」というらしいが、
これもまたえらく中央アジアくさい名前の作りをしてるね。
9 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 21:36:55 0
そりゃ当時の遼はシルクロードを握っていたからね。
中央アジア向けの名前を名乗っても不思議じゃない。
それに遼は仏教国だし。
11 :世界@名無史さん 2006/09/01(金) 10:33:18 0
「~という野蛮な異民族は最終的には漢化した」って言い方って妥当なのかな?
12 :世界@名無史さん 2006/09/01(金) 15:59:14 0
「漢化」という概念そのものが曖昧すぎていまいち理解できてない。
漢字やそれに連なる古典や文化を享受したという意味だったら、
飛鳥、奈良時代以降の日本も「漢化」なのか? と思うのだが・・
ウイグル王国の場合は領内のソグド人の影響で自らの言語である
ウイグル語の文語化に成功して、ソグド人のもっていたソグド語や
パルティア語、パフラヴィー語の文献群や漢文の仏典や古典を大量に
ウイグル語へ翻訳したりして、これらの文化を自らの物にしている。
尤も12世紀頃になるとソグド語なども口語として衰退しちゃって
ソグド系の人々もほとんどウイグル語化していたらしいけど。
契丹にしてもそれのやや漢文比率が多いと言うだけで、ウイグル王国や
日本の場合と根本的に違いがあるようには思えないのだが、東洋史の
人たち的には日本や朝鮮半島、北・東アジア全体の歴史的な現象として
「漢化」というものをどのように定義しているんだろうか?
13 :世界@名無史さん 2006/09/01(金) 22:27:30 0
民族的、言語的にキタイと非常に近い関係にあるにもかかわらず、
文化的にはほとんど漢化しなかったモンゴルは偉い。
14 :世界@名無史さん 2006/09/04(月) 16:59:22 0
>>13
洪武年間に明に投降したモンゴル人は漢姓賜って漢化しているけどね。
でも、モンゴル(元)が完全に漢化しなかったのは
先にイスラーム文化圏を見て
「漢文化だけが特別優れている訳じゃない」と思ったからだと。
17 :世界@名無史さん 2006/09/05(火) 20:43:41 0
>>14
萩原淳平さんの「明代蒙古史研究」で少し触れてたけど、
投降したモンゴルが漢化したというより、元代にすでに漢化して
漠北で生活できなくなっていた連中が投降したのではないか
という話でしたね。
15 :世界@名無史さん 2006/09/04(月) 21:31:45 0
契丹の辮髪はこめかみから垂らす感じでしたっけ。
16 :世界@名無史さん 2006/09/05(火) 16:45:27 O
ゲルマン人のスエビ結いに似ていますね
18 :世界@名無史さん 2006/09/05(火) 20:50:15 0
元代に華北に住んでいたモンゴル人にとって過去の遊牧中心の生活に戻れと
言われたら、そりゃ戸惑うでしょうな。
それなら明に投降して従来の生活様式を保つのが賢明な判断。
19 :世界@名無史さん 2006/09/07(木) 23:15:34 0
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21 :世界@名無史さん 2006/10/11(水) 01:06:11 0
スラブ系言語では、キタイは、中国のことなんだよね。
シナ(漢字変換でない)中心史観に嫌悪している人には申し訳ないんだけど。
22 :世界@名無史さん 2006/10/11(水) 06:28:00 0
> スラヴ系言語では「キタイ」は中国のこと
ジョチ家などのモンゴル政権ないしホラーサーンやホラズム方面からの影響らしいと聞くね。
「キタイ」(キタド)はモンゴル語やペルシア語などでは厳密には「北中国」のことで、
中央アジアでは13世紀当時は「中国全体」となると「キタド(ヒターイー)およびチンとマチン」
という呼び方をされていた。それ以前はペルシア語では「秦」に由来する「チーン」とか
「チーニスターン」がより一般的で、アラビア語では同じく「スィーン」。
「キタイ」という名称が中国全体の「他称」として一般化していく背景には、多分カラ・キタイ
(西遼)とかモンゴル帝国の影響がかなりあるんじゃないだろうか。ロシアの『原初年代記』には
さすがに中国方面については記事が無かったような気がする。
25 :赤座 2006/10/21(土) 13:26:14 0
契丹人はモンゴル系なので、辮髪はしていなかったと思う。
契丹を西方へ追いやった金は女直人(満州人)系なので、
皇帝も辮髪をしていたのではないか。
26 :世界@名無史さん 2006/10/21(土) 13:31:23 0
モンゴル人は辮髪だが?
27 :世界@名無史さん 2006/10/21(土) 15:12:07 0
ついでに言うとテュルク系でも辮髪の集団はいたわけだし。
28 :世界@名無史さん 2006/10/21(土) 21:52:57 0
> 契丹人
辮髪は辮髪だが清朝なんかの時代の女真族なんかとは
別の辮髪の結い方をしている。
勿論、モンゴル族と契丹族でもそれぞれ結い方が微妙に違う。
30 :世界@名無史さん 2006/10/23(月) 19:50:03 0
契丹人はモンゴル人に吸収されたのか?それとも漢族扱いだったのか?
31 :世界@名無史さん 2006/10/23(月) 19:57:39 0
>>30
チンギス時代では耶律阿海・禿花兄弟がモンゴル統一前から軍事面で
活躍しており、同じ系列の遊牧民族なので準支配民族扱い。
漢族以上モンゴル未満といった位置。
32 :世界@名無史さん 2006/10/23(月) 21:16:37 0
「キタイ」という部族も後のチュルク・モンゴルにあったようだが?
モンゴルに吸収されたのは西遼残党組かも?
34 :世界@名無史さん 2006/10/23(月) 22:15:20 0
>>32
耶律阿海・禿花兄弟などの旧遼王朝の遺民は西方ではあまり名前が知られていないが、
現在のイランの南西部、ケルマーン地方にはモンゴル帝国軍が侵攻する直前くらいから
クトルグ・ハン家による「カラキタイ朝」という王朝があった。
西遼の皇帝(グル・ハン)に仕え、これに臣属していた時期のホラズムシャー朝の
アラーウッディーン・ムハンマド麾下の侍従だったバラーク・ハージブという
人物を祖とする。
1210年にムハンマドがカラハン朝のスルタン・ウスマーンとともにマーワラーアンナフルから
西遼へ侵攻したとき、これとスィル河東岸で抗戦した西遼側の武将ターヤンクーなる人物の
兄弟だったらしい。この戦いで西遼軍は敗北し、バラークはターヤンクーともども捕虜となり、
以後ムハンマドに仕えるようになったという。
その後バラークは、ホラズムシャー朝のジャラールッディーンとギヤースッディーンの兄弟と
ケルマーンの領有を巡って争い、1223年についにアッバース朝のカリフからスルタンの称号を
得て、「クトルグ・スルターン」と名乗り、名実共にケルマーンの君主となりおおせた。
しかも息子のルクヌッディーン・ムバーラク・ホージャはオゴデイ・カアンのもとへ使者を
送って帰順し、ルクヌッディーンの娘はチャガタイの妻となるなど、モンゴル帝国の帰順王家
として存続。こののち、ケルマーンのカラキタイ王朝は子孫が断絶してイルハン朝のオルジェイトゥ・
ハンにより所領が没収される1303年までケルマーンを安堵された。
33 :世界@名無史さん 2006/10/23(月) 21:25:29 0
西遼の契丹人は少数派だったから記録に記載される程の存在感を
モンゴル帝国史に残していないな。
多分、チャガタイウルスで細々と生きていたのだろう。
35 :世界@名無史さん 2006/10/25(水) 02:54:54 0
なんで「カラ=黒」なん?
36 :世界@名無史さん 2006/10/25(水) 10:46:38 O
>>35
カラ=西 じゃないの?
38 :世界@名無史さん 2006/10/25(水) 14:07:46 0
>>36
それは俗説というか聞いた事の無い説。
「Qara」は飽くまでもテュルク・モンゴル語で「黒」の意味であって、
「西」などの意味は含まれない。
「カラー・ヒターイー」なら西遼側の人間が実際に使っていたかも知れないが、
「"西"遼」それ自体は宋朝などの契丹以外の漢字文化圏の人々が勝手に名付けた
ものであって、彼ら自身の自称ではない。
37 :世界@名無史さん 2006/10/25(水) 11:30:35 0
カラ=西 ???
40 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 00:49:21 0
遊牧民の方位観念だと西は白だったような。
41 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 01:21:48 0
>>40
ベラルーシ=「白ロシア」=西ルーシ
43 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 01:24:05 0
西洋に白人が住んでいたからだろうか?
44 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 01:28:44 0
>>43
それだったら東洋に青人が住んでないとおかしいだろうが
100 :世界@名無史さん 2007/06/19(火) 19:59:35 0
>>44
魏志倭人伝で刺青をしていたとあるでよ。
103 :世界@名無史さん 2007/09/21(金) 00:36:16 0
>>100
「黥面文身」であって「刺青」という言葉はでてこない。
「黥面文身」には直接的に「青」を喚起させる字はないよ。とネタにマジレス
46 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 05:12:42 0
「西」=ジュンガル?
47 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 09:25:16 0
玄武(北・黒)、青龍(東・青)、朱雀(南・赤)、白虎(西・白)ですね。
48 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 16:23:45 0
カラハン朝も黒?
49 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 21:09:35 0
「ジュンガル」は「左」のこと。
ダヤン・ハーンの「左翼」軍団が起源だから「ジュンガル」。
あえて方角で言えば、ハーンは南面しているので「東」。
52 :世界@名無史さん 2006/10/27(金) 20:32:59 0
仮定の話しだが、もし満州国が続いていたら、契丹研究は今頃すごく進んでいただろう。
敗戦により日本では研究が途絶えた。その後おそらくは契丹の重要な墳墓等が略奪されたり盗掘されたものと思う。
それにしても契丹といったら耶律倍だね。
57 :世界@名無史さん 2006/11/08(水) 11:16:58 0
カラ・キタイのカラ=黒とは「奴隷」のことか?
58 :世界@名無史さん 2006/11/08(水) 14:00:59 0
> カラ=黒とは「奴隷」
そのような傍証は知られていない。
59 :世界@名無史さん 2006/11/08(水) 14:35:39 0
現カラ・カルパク民族と関係有るのかも?
61 :世界@名無史さん 2006/11/12(日) 09:29:56 0
カラカルパクは、サカ/スキタイ系のコーカソイドをベースに
して、その上にフン、突厥、ペチェネグが被さってテュルク化し、
さらにノガイが被さって、16世紀頃にカラカルパクという集団に
なった。
だからカラキタイとは全然関係ないよ。
62 :世界@名無史さん 2006/11/12(日) 13:10:31 0
スキタイがベースなんだ。面白いですね。
ジョチウルスとかの支配下だった?
63 :世界@名無史さん 2006/11/12(日) 17:40:57 0
カラカルパク、カラキタイ、カラハン朝、黒羊朝の「黒」は制服の色らしい。
70 :世界@名無史さん 2006/11/13(月) 13:58:01 O
阿保機率いる契丹と当初は友好、最終的には死闘をくり返した李克用、存勗父子のテュルク系沙陀族は黒ずくめの服装していて沙陀族に鎮圧された黄巣軍からカラス部隊と恐れられていたらしいが
71 :世界@名無史さん 2006/11/13(月) 14:01:02 0
アッバース朝の黒衣とは関係ない・・・よね。
82 :世界@名無史さん 2006/11/17(金) 00:39:20 O
なんで元は遼(遼史)をよく書きたがらないのかな
83 :世界@名無史さん 2006/11/17(金) 02:31:21 0
優遇されたのは楚材一族だけで、
金華北地方に居たのは女真系もろとも死滅したというのが本当では?
84 :世界@名無史さん 2006/11/17(金) 03:52:48 0
金滅亡のとき、華北は凄惨な状況になって華北に居た女真系は死滅したらしい。
86 :世界@名無史さん 2006/11/17(金) 07:31:13 0
兄貴分であっても滅亡したら権利主張できない。
87 :世界@名無史さん 2006/11/17(金) 09:38:13 0
とりあえずよく分からない人は山川「民族の世界史」の
「中央ユーラシアの世界」と「東北アジアの民族と歴史」読んだほうが
88 :世界@名無史さん 2006/11/18(土) 16:48:00 0
金がモンゴル帝国に滅亡させられた際には、故地を既にモンゴル軍に奪われて中原に取り残された大勢の女真が
モンゴル人と漢人双方からの攻撃を受けて大半が死滅し、
中原から女真の集団は消滅した。
107 :世界@名無史さん 2007/12/02(日) 07:08:28 0
西遼にロマンを感じるなぁ
108 :世界@名無史さん 2008/02/16(土) 02:59:31 0
靺鞨と契丹って同一?
109 :世界@名無史さん 2008/02/18(月) 20:36:38 0
視点にもよるけど少なくとも同一ではないと思う
当の契丹人は10世紀半ばごろの段階では
むしろ女真≒黒水靺鞨の子孫、みたいに考えてたらしい
新唐書だと粟末靺鞨→渤海≒高麗の別種、風俗は同じ
旧唐書は渤海靺鞨は高麗の別種、みたいな書き方をしてるらしい
110 :世界@名無史さん 2008/02/19(火) 19:45:57 0
靺鞨って音声的には蒙古のことじゃないの?
125 :世界@名無史さん 2008/04/27(日) 21:58:49 0
>>110
多賀城の碑文に「去る靺鞨国堺三千里」って書いてあるね。国を去って多賀城まで
遠征して来た人もいたんだろうと思うとロマンがある。
127 :世界@名無史さん 2008/06/24(火) 02:16:26 0
>>125
当時は蝦夷などは朝廷にとっては靺鞨と同列の異国だったろうからね。
平将門が挙兵したのも耶律阿保機が遼王朝を創業したのに刺激を受けた
ものであったようであるし、当然大陸の遊牧、狩猟採集民とかの影響とかは
受けてたと思う。
アイヌは日本と大陸をいったりきたりしてたようだし。
128 :世界@名無史さん 2008/06/24(火) 15:47:57 0
>>127
アイヌはあの地域の最大の交易民だったからな。
134 :世界@名無史さん 2008/12/02(火) 10:03:34 0
>>127
人名や習俗や入ってくる産品や地名で明らかにアイヌっぽいものが出てくるのって、
14世紀に入ってからだよ。
間宮海峡をめぐって蒙古帝国と樺太の住民との間で戦闘があったりしたんだけれど、
樺太側がアイヌかどうかは判らない。
近代では、間宮海峡の一番狭いところは、両岸とも山丹(ギリヤーク)の居住地、
50度ら辺より北はツングースの一派のオロッコが支配的だった。仮に13世紀頃と
19世紀頃と分布が同じだったとしても、蒙古とアイヌが戦ったとは言い難い。
126 :世界@名無史さん 2008/04/30(水) 12:43:53 0
まあ間接的にでも何らかの交流がなければ方角と距離を知る訳も無い。
中国からの情報じゃなくて実際北方から靺鞨国と接触持った集団がいたんだろうな
111 :世界@名無史さん 2008/02/19(火) 20:06:46 0
ツングース系でしょ。
112 :世界@名無史さん 2008/02/19(火) 21:17:37 0
現代語では「mo he」と「m?ng g?」で大分違うよ。
当時の中古音ではどうか知らんが。
113 :世界@名無史さん 2008/02/24(日) 01:13:31 0
現代北京音じゃ入声が消滅しているからなぁ
114 :世界@名無史さん 2008/02/27(水) 00:44:48 0
現代北京音は簡略化されすぎだろ、あれ
115 :世界@名無史さん 2008/02/28(木) 22:17:48 0
簡略化は英語並
121 :世界@名無史さん 2008/04/06(日) 13:02:35 0
契丹って蒙古の一派なのに、のちの元と違って漢化してたんだね
136 :世界@名無史さん 2009/01/07(水) 17:02:20 0
ウズベキスタンを中心に、中央アジアにはカラキタイの末裔が多い。
ま、自称かも知れんが。
契丹というか遼の天子や官人はやはり胡服辮髪してたの?
それとも漢風だったの?
細かい事だけど王朝のイメージとして重要だと思う。
6 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 20:34:10 0
太祖や太宗の頃は純遊牧国家だったので胡服辮髪していたけど
聖宗の頃には宮廷儀礼その他も漢式になっていた。
7 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 20:48:17 0
これも有名な話だけど、金朝は
モンゴル語では「キタドのアルタン・カン」、ペルシア語の資料でも「ヒターイーのアルターン・ハーン」
と呼ばれていて、モンゴル帝国が登場してくる頃にはすでにキタイ(モンゴル語等の複数形がキタド)は
地域的な名称になっていた。
> 契丹というか遼の天子や官人はやはり胡服辮髪してたの?
基本的にそんな感じだったような話が。唐王朝の官服も基本的に禿髪部というかソグドとか突厥の連中の
着ていた物そのものだそうだから。弁髪に冠、胡服というとウイグル王国の壁画の王侯像に感じが近いかも
知れない。ウイグル王もモンゴルと同じで君主の冠は金製だったらしいが。
8 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 20:53:41 0
第六代の聖宗皇帝は諱の一名を「文殊奴」というらしいが、
これもまたえらく中央アジアくさい名前の作りをしてるね。
9 :世界@名無史さん 2006/08/31(木) 21:36:55 0
そりゃ当時の遼はシルクロードを握っていたからね。
中央アジア向けの名前を名乗っても不思議じゃない。
それに遼は仏教国だし。
11 :世界@名無史さん 2006/09/01(金) 10:33:18 0
「~という野蛮な異民族は最終的には漢化した」って言い方って妥当なのかな?
12 :世界@名無史さん 2006/09/01(金) 15:59:14 0
「漢化」という概念そのものが曖昧すぎていまいち理解できてない。
漢字やそれに連なる古典や文化を享受したという意味だったら、
飛鳥、奈良時代以降の日本も「漢化」なのか? と思うのだが・・
ウイグル王国の場合は領内のソグド人の影響で自らの言語である
ウイグル語の文語化に成功して、ソグド人のもっていたソグド語や
パルティア語、パフラヴィー語の文献群や漢文の仏典や古典を大量に
ウイグル語へ翻訳したりして、これらの文化を自らの物にしている。
尤も12世紀頃になるとソグド語なども口語として衰退しちゃって
ソグド系の人々もほとんどウイグル語化していたらしいけど。
契丹にしてもそれのやや漢文比率が多いと言うだけで、ウイグル王国や
日本の場合と根本的に違いがあるようには思えないのだが、東洋史の
人たち的には日本や朝鮮半島、北・東アジア全体の歴史的な現象として
「漢化」というものをどのように定義しているんだろうか?
13 :世界@名無史さん 2006/09/01(金) 22:27:30 0
民族的、言語的にキタイと非常に近い関係にあるにもかかわらず、
文化的にはほとんど漢化しなかったモンゴルは偉い。
14 :世界@名無史さん 2006/09/04(月) 16:59:22 0
>>13
洪武年間に明に投降したモンゴル人は漢姓賜って漢化しているけどね。
でも、モンゴル(元)が完全に漢化しなかったのは
先にイスラーム文化圏を見て
「漢文化だけが特別優れている訳じゃない」と思ったからだと。
17 :世界@名無史さん 2006/09/05(火) 20:43:41 0
>>14
萩原淳平さんの「明代蒙古史研究」で少し触れてたけど、
投降したモンゴルが漢化したというより、元代にすでに漢化して
漠北で生活できなくなっていた連中が投降したのではないか
という話でしたね。
15 :世界@名無史さん 2006/09/04(月) 21:31:45 0
契丹の辮髪はこめかみから垂らす感じでしたっけ。
16 :世界@名無史さん 2006/09/05(火) 16:45:27 O
ゲルマン人のスエビ結いに似ていますね
18 :世界@名無史さん 2006/09/05(火) 20:50:15 0
元代に華北に住んでいたモンゴル人にとって過去の遊牧中心の生活に戻れと
言われたら、そりゃ戸惑うでしょうな。
それなら明に投降して従来の生活様式を保つのが賢明な判断。
19 :世界@名無史さん 2006/09/07(木) 23:15:34 0
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く___/ \____). く__ノ く_ノ
21 :世界@名無史さん 2006/10/11(水) 01:06:11 0
スラブ系言語では、キタイは、中国のことなんだよね。
シナ(漢字変換でない)中心史観に嫌悪している人には申し訳ないんだけど。
22 :世界@名無史さん 2006/10/11(水) 06:28:00 0
> スラヴ系言語では「キタイ」は中国のこと
ジョチ家などのモンゴル政権ないしホラーサーンやホラズム方面からの影響らしいと聞くね。
「キタイ」(キタド)はモンゴル語やペルシア語などでは厳密には「北中国」のことで、
中央アジアでは13世紀当時は「中国全体」となると「キタド(ヒターイー)およびチンとマチン」
という呼び方をされていた。それ以前はペルシア語では「秦」に由来する「チーン」とか
「チーニスターン」がより一般的で、アラビア語では同じく「スィーン」。
「キタイ」という名称が中国全体の「他称」として一般化していく背景には、多分カラ・キタイ
(西遼)とかモンゴル帝国の影響がかなりあるんじゃないだろうか。ロシアの『原初年代記』には
さすがに中国方面については記事が無かったような気がする。
25 :赤座 2006/10/21(土) 13:26:14 0
契丹人はモンゴル系なので、辮髪はしていなかったと思う。
契丹を西方へ追いやった金は女直人(満州人)系なので、
皇帝も辮髪をしていたのではないか。
26 :世界@名無史さん 2006/10/21(土) 13:31:23 0
モンゴル人は辮髪だが?
27 :世界@名無史さん 2006/10/21(土) 15:12:07 0
ついでに言うとテュルク系でも辮髪の集団はいたわけだし。
28 :世界@名無史さん 2006/10/21(土) 21:52:57 0
> 契丹人
辮髪は辮髪だが清朝なんかの時代の女真族なんかとは
別の辮髪の結い方をしている。
勿論、モンゴル族と契丹族でもそれぞれ結い方が微妙に違う。
30 :世界@名無史さん 2006/10/23(月) 19:50:03 0
契丹人はモンゴル人に吸収されたのか?それとも漢族扱いだったのか?
31 :世界@名無史さん 2006/10/23(月) 19:57:39 0
>>30
チンギス時代では耶律阿海・禿花兄弟がモンゴル統一前から軍事面で
活躍しており、同じ系列の遊牧民族なので準支配民族扱い。
漢族以上モンゴル未満といった位置。
32 :世界@名無史さん 2006/10/23(月) 21:16:37 0
「キタイ」という部族も後のチュルク・モンゴルにあったようだが?
モンゴルに吸収されたのは西遼残党組かも?
34 :世界@名無史さん 2006/10/23(月) 22:15:20 0
>>32
耶律阿海・禿花兄弟などの旧遼王朝の遺民は西方ではあまり名前が知られていないが、
現在のイランの南西部、ケルマーン地方にはモンゴル帝国軍が侵攻する直前くらいから
クトルグ・ハン家による「カラキタイ朝」という王朝があった。
西遼の皇帝(グル・ハン)に仕え、これに臣属していた時期のホラズムシャー朝の
アラーウッディーン・ムハンマド麾下の侍従だったバラーク・ハージブという
人物を祖とする。
1210年にムハンマドがカラハン朝のスルタン・ウスマーンとともにマーワラーアンナフルから
西遼へ侵攻したとき、これとスィル河東岸で抗戦した西遼側の武将ターヤンクーなる人物の
兄弟だったらしい。この戦いで西遼軍は敗北し、バラークはターヤンクーともども捕虜となり、
以後ムハンマドに仕えるようになったという。
その後バラークは、ホラズムシャー朝のジャラールッディーンとギヤースッディーンの兄弟と
ケルマーンの領有を巡って争い、1223年についにアッバース朝のカリフからスルタンの称号を
得て、「クトルグ・スルターン」と名乗り、名実共にケルマーンの君主となりおおせた。
しかも息子のルクヌッディーン・ムバーラク・ホージャはオゴデイ・カアンのもとへ使者を
送って帰順し、ルクヌッディーンの娘はチャガタイの妻となるなど、モンゴル帝国の帰順王家
として存続。こののち、ケルマーンのカラキタイ王朝は子孫が断絶してイルハン朝のオルジェイトゥ・
ハンにより所領が没収される1303年までケルマーンを安堵された。
33 :世界@名無史さん 2006/10/23(月) 21:25:29 0
西遼の契丹人は少数派だったから記録に記載される程の存在感を
モンゴル帝国史に残していないな。
多分、チャガタイウルスで細々と生きていたのだろう。
35 :世界@名無史さん 2006/10/25(水) 02:54:54 0
なんで「カラ=黒」なん?
36 :世界@名無史さん 2006/10/25(水) 10:46:38 O
>>35
カラ=西 じゃないの?
38 :世界@名無史さん 2006/10/25(水) 14:07:46 0
>>36
それは俗説というか聞いた事の無い説。
「Qara」は飽くまでもテュルク・モンゴル語で「黒」の意味であって、
「西」などの意味は含まれない。
「カラー・ヒターイー」なら西遼側の人間が実際に使っていたかも知れないが、
「"西"遼」それ自体は宋朝などの契丹以外の漢字文化圏の人々が勝手に名付けた
ものであって、彼ら自身の自称ではない。
37 :世界@名無史さん 2006/10/25(水) 11:30:35 0
カラ=西 ???
40 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 00:49:21 0
遊牧民の方位観念だと西は白だったような。
41 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 01:21:48 0
>>40
ベラルーシ=「白ロシア」=西ルーシ
43 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 01:24:05 0
西洋に白人が住んでいたからだろうか?
44 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 01:28:44 0
>>43
それだったら東洋に青人が住んでないとおかしいだろうが
100 :世界@名無史さん 2007/06/19(火) 19:59:35 0
>>44
魏志倭人伝で刺青をしていたとあるでよ。
103 :世界@名無史さん 2007/09/21(金) 00:36:16 0
>>100
「黥面文身」であって「刺青」という言葉はでてこない。
「黥面文身」には直接的に「青」を喚起させる字はないよ。とネタにマジレス
46 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 05:12:42 0
「西」=ジュンガル?
47 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 09:25:16 0
玄武(北・黒)、青龍(東・青)、朱雀(南・赤)、白虎(西・白)ですね。
48 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 16:23:45 0
カラハン朝も黒?
49 :世界@名無史さん 2006/10/26(木) 21:09:35 0
「ジュンガル」は「左」のこと。
ダヤン・ハーンの「左翼」軍団が起源だから「ジュンガル」。
あえて方角で言えば、ハーンは南面しているので「東」。
52 :世界@名無史さん 2006/10/27(金) 20:32:59 0
仮定の話しだが、もし満州国が続いていたら、契丹研究は今頃すごく進んでいただろう。
敗戦により日本では研究が途絶えた。その後おそらくは契丹の重要な墳墓等が略奪されたり盗掘されたものと思う。
それにしても契丹といったら耶律倍だね。
57 :世界@名無史さん 2006/11/08(水) 11:16:58 0
カラ・キタイのカラ=黒とは「奴隷」のことか?
58 :世界@名無史さん 2006/11/08(水) 14:00:59 0
> カラ=黒とは「奴隷」
そのような傍証は知られていない。
59 :世界@名無史さん 2006/11/08(水) 14:35:39 0
現カラ・カルパク民族と関係有るのかも?
61 :世界@名無史さん 2006/11/12(日) 09:29:56 0
カラカルパクは、サカ/スキタイ系のコーカソイドをベースに
して、その上にフン、突厥、ペチェネグが被さってテュルク化し、
さらにノガイが被さって、16世紀頃にカラカルパクという集団に
なった。
だからカラキタイとは全然関係ないよ。
62 :世界@名無史さん 2006/11/12(日) 13:10:31 0
スキタイがベースなんだ。面白いですね。
ジョチウルスとかの支配下だった?
63 :世界@名無史さん 2006/11/12(日) 17:40:57 0
カラカルパク、カラキタイ、カラハン朝、黒羊朝の「黒」は制服の色らしい。
70 :世界@名無史さん 2006/11/13(月) 13:58:01 O
阿保機率いる契丹と当初は友好、最終的には死闘をくり返した李克用、存勗父子のテュルク系沙陀族は黒ずくめの服装していて沙陀族に鎮圧された黄巣軍からカラス部隊と恐れられていたらしいが
71 :世界@名無史さん 2006/11/13(月) 14:01:02 0
アッバース朝の黒衣とは関係ない・・・よね。
82 :世界@名無史さん 2006/11/17(金) 00:39:20 O
なんで元は遼(遼史)をよく書きたがらないのかな
83 :世界@名無史さん 2006/11/17(金) 02:31:21 0
優遇されたのは楚材一族だけで、
金華北地方に居たのは女真系もろとも死滅したというのが本当では?
84 :世界@名無史さん 2006/11/17(金) 03:52:48 0
金滅亡のとき、華北は凄惨な状況になって華北に居た女真系は死滅したらしい。
86 :世界@名無史さん 2006/11/17(金) 07:31:13 0
兄貴分であっても滅亡したら権利主張できない。
87 :世界@名無史さん 2006/11/17(金) 09:38:13 0
とりあえずよく分からない人は山川「民族の世界史」の
「中央ユーラシアの世界」と「東北アジアの民族と歴史」読んだほうが
88 :世界@名無史さん 2006/11/18(土) 16:48:00 0
金がモンゴル帝国に滅亡させられた際には、故地を既にモンゴル軍に奪われて中原に取り残された大勢の女真が
モンゴル人と漢人双方からの攻撃を受けて大半が死滅し、
中原から女真の集団は消滅した。
107 :世界@名無史さん 2007/12/02(日) 07:08:28 0
西遼にロマンを感じるなぁ
108 :世界@名無史さん 2008/02/16(土) 02:59:31 0
靺鞨と契丹って同一?
109 :世界@名無史さん 2008/02/18(月) 20:36:38 0
視点にもよるけど少なくとも同一ではないと思う
当の契丹人は10世紀半ばごろの段階では
むしろ女真≒黒水靺鞨の子孫、みたいに考えてたらしい
新唐書だと粟末靺鞨→渤海≒高麗の別種、風俗は同じ
旧唐書は渤海靺鞨は高麗の別種、みたいな書き方をしてるらしい
110 :世界@名無史さん 2008/02/19(火) 19:45:57 0
靺鞨って音声的には蒙古のことじゃないの?
125 :世界@名無史さん 2008/04/27(日) 21:58:49 0
>>110
多賀城の碑文に「去る靺鞨国堺三千里」って書いてあるね。国を去って多賀城まで
遠征して来た人もいたんだろうと思うとロマンがある。
127 :世界@名無史さん 2008/06/24(火) 02:16:26 0
>>125
当時は蝦夷などは朝廷にとっては靺鞨と同列の異国だったろうからね。
平将門が挙兵したのも耶律阿保機が遼王朝を創業したのに刺激を受けた
ものであったようであるし、当然大陸の遊牧、狩猟採集民とかの影響とかは
受けてたと思う。
アイヌは日本と大陸をいったりきたりしてたようだし。
128 :世界@名無史さん 2008/06/24(火) 15:47:57 0
>>127
アイヌはあの地域の最大の交易民だったからな。
134 :世界@名無史さん 2008/12/02(火) 10:03:34 0
>>127
人名や習俗や入ってくる産品や地名で明らかにアイヌっぽいものが出てくるのって、
14世紀に入ってからだよ。
間宮海峡をめぐって蒙古帝国と樺太の住民との間で戦闘があったりしたんだけれど、
樺太側がアイヌかどうかは判らない。
近代では、間宮海峡の一番狭いところは、両岸とも山丹(ギリヤーク)の居住地、
50度ら辺より北はツングースの一派のオロッコが支配的だった。仮に13世紀頃と
19世紀頃と分布が同じだったとしても、蒙古とアイヌが戦ったとは言い難い。
126 :世界@名無史さん 2008/04/30(水) 12:43:53 0
まあ間接的にでも何らかの交流がなければ方角と距離を知る訳も無い。
中国からの情報じゃなくて実際北方から靺鞨国と接触持った集団がいたんだろうな
111 :世界@名無史さん 2008/02/19(火) 20:06:46 0
ツングース系でしょ。
112 :世界@名無史さん 2008/02/19(火) 21:17:37 0
現代語では「mo he」と「m?ng g?」で大分違うよ。
当時の中古音ではどうか知らんが。
113 :世界@名無史さん 2008/02/24(日) 01:13:31 0
現代北京音じゃ入声が消滅しているからなぁ
114 :世界@名無史さん 2008/02/27(水) 00:44:48 0
現代北京音は簡略化されすぎだろ、あれ
115 :世界@名無史さん 2008/02/28(木) 22:17:48 0
簡略化は英語並
121 :世界@名無史さん 2008/04/06(日) 13:02:35 0
契丹って蒙古の一派なのに、のちの元と違って漢化してたんだね
136 :世界@名無史さん 2009/01/07(水) 17:02:20 0
ウズベキスタンを中心に、中央アジアにはカラキタイの末裔が多い。
ま、自称かも知れんが。
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コメント一覧
あと単数形はキタン、複数形がキタイって何かで読んだ気が。
黑なら聞いたことはあるけど西なんていうのは浅学ながらか聞いたことがない。
※4
講談の中国の歴史?キタンとキタイの複数単数の話ならそこでみたい気がする。
民族的に違うの?
外見的に一目で何々族だとわかる違いがあるの?
色々な遊牧民の絵を無作為に並べた時、これは匈奴、これは突厥っていう風にわかるものなの? わかるとしたらその特徴はなに?
世界史の教科書いくら読んでも出てこないんだよな、それ。
自分で調べても、外見についてはよくわからん。
詳しい人誰か教えて。
研究者の間でも、よく分かっておらず、
僅かに他国が残した文書や遺跡関係から突き合わせて、
「この部族とは同種、この部族とは近い関係であっただろう」
というのが現状です。
まず蒙古、満州、西域の人たちは記録を残すということに
関心を持っていなかったので、
後世(現在)の学者を悩ましているという。
13年くらい前にトルコ共和国で、トルコ人のおっちゃんに、
私たちも昔はあなたたちと同じ顔だったんですよ、
って言われたことある。
要するに日本人とモンゴル人と同じっていう。
(↑日本人とモンゴル人顔そっくり人多いから)
このトルコのおっちゃんは、突厥人はモンゴルと
同種と考えてたみたい。
まぁ、これがトルコ共和国の学界では一般常識か
どうか知らないけど。
なるほど、「よく分かっていない」んですね
ありがとうございます