「常陸の国風土記 -ある島での少年と少女のやりとり-」


本義だけが意味を成し、本義のみがクローズアップされますように


日本がいよいよ、本来の姿に戻る時が来た

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日本がいよいよ、本来の姿に戻る時が来た

 


(1)
秦氏シルクロードキリスト教国であった弓月国からやってきたことが、日本にキリスト教が入った最初ではなかった。

それ以前に、紀元70年前に日本にイエスの弟子たちが来た。

それは、イエスが「そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マルコ13・27)と言われたからだ。

ここで、イエスは、「選びの民、すなわち、契約の民イスラエル人は地の四方に散っている」と述べておられる。

イスラエルは、ソロモンの時代からフェニキア人とともに世界に進出していた。静岡県与那国島フェニキアの遺跡がある。
http://www.h5.dion.ne.jp/...

淡路島には22カ所古代ユダヤ人の遺跡があるという。


淡路島には22カ所古代ユダヤ人の塚が発見されています。「古茂江(こもえ)」という所には明らかにユダヤの古代印の刻まれた石棺があります。こもえという地名はユダヤヘブライ語で「秘の上の菰(こも)」という意味になり、菰とは聖なるものの覆いということになります。戦後、ユダヤ教大司教T・ローゼン師が来島し、発掘調査にも加わり、ユダヤの石棺であることを確認しています。石棺の中からは青玉石が発掘され、さらには自然の岩を利用し火によって彫像された女陰が発見されています。つまり聖なる秘部を覆う菰が「こもえ」という地名の語源になっているわけです。
http://amanakuni.net/...


ソロモンの船団が孔雀を運んできたという記録が聖書にある。孔雀は、ミャンマーが原産である。

南米に古代ユダヤ人のメノラーが発見された。
http://dateiwao-id.hp.infoseek.co.jp/menora.htm

ユダヤ人は文字通り世界中に進出していた。

このように地の四方にいた契約の民を救うために、神は、紀元70年の旧約世界の崩壊前に、御使い(アンゲロス=メッセンジャー=伝道者)を使わされる。

エスが旧約の契約を成就するために来られ、その生涯と十字架において律法をすべて成就し、完成され、確立されたので、契約の約束が付与される条件が整った。

保険契約の条件を満たした被保険者に約束のお金が支払われるように、契約の民に約束の救い、相続、御国が与えられる条件が整ったのである。

だから、これらのメッセンジャーは、この福音を携えて契約の民のもとに出かけた。

(2)
日本は、彼らの伝道の中心的な目的地であった。

なぜならば、日本は、バビロン捕囚から解放された契約の民の本体が移り住んだ地だったからだ。

イスラエルの十部族探索機関アミシャブの公式見解では、消えた十部族の本体は日本に来たとある。


イスラエル十部族の大集団は、東方に向かってシルクロードを進み、その途中でときおり数グループの人々が、主流からはずれ定住していった。それらの人びとが、今日アフガニスタンパキスタンカシミールチベット、中国、その他に現存している十部族の人びとであり、また中国に達したときに、幾人かのグループが南に向かって行き、タイ、ビルマ、インドに達した。そして本隊は、朝鮮を経由して日本に到達したと思われる。」(『日本・ユダヤ連合超大国』小石豊著)


日本には、契約の民がまとまって住んでいた。

考えていただきたい。バビロン捕囚が終了した段階で、契約の民は刑罰から解放されたのである。彼らは罪を赦された。もう裁きの下にはない。

ペルシャ王クロスの解放宣言によって、彼らは自由の身になり、安息の状態に入った。

だから、東へ向かった十部族(実際は12部族だっただろう)の人々は、赦された民であり、それゆえ、安息の地を目指したと考えることができる。

外敵の侵略を受けない島国である日本は、「安息の地」であったのだろう。

それ以前にユダヤ人は、ソロモンの船団の世界探索の際に日本を発見していた。彼らは、この伝説の島に向かってシルクロードを東進した。

パレスチナは、紀元70年に「安息の地」であることをやめた。パレスチナに代わって、日本がその地位を獲得した。

ただし、ご注意いただきたいのは、日本が聖地になったという意味ではない。なぜならば、神はキリストの十字架において、全世界を聖め、聖地とされたからだ。


その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)


十字架以降、どの地が神の聖地で、どこが俗地という区別はない。日本が安息の地であるという意味は、「契約の民が安心して暮らす地」という意味においてだ。

紀元前から契約の民が、ローマやアッシリアなど異邦人の暴虐な支配を受けずに安心して暮らしていた「約束の地」である日本に福音が入り、そこは「成就した安息の地」に変わった。

だから、当然のことながら、紀元70年に崩壊したイスラエル国にいたクリスチャンたちは、日本を目指したことだろう。

(3)
彼らは、波状的に日本にたどり着いた。一度にやってきたわけではなく、何段階にもわけて入ってきた。古墳を建設した騎馬民族も、ユダヤ系の人々であったと思う。なぜならば、古墳の形が「マナの壺」「祭壇」を模しているからだ。宮内庁が古墳の発掘を許可しないのは、内部にユダヤ人の文物があるからだと思う。

弓月国から来た秦氏の集団は、大きな勢力だった。

それまでいた人々よりも高度な文明を持っていたので、支配者層になった。

それまでの礼拝制度であった神道秦氏によって更新され、三位一体が強調された。三柱鳥居がその象徴である。

彼らは、皇室と強いつながりを作り、キリスト教に基づく天皇制を構築した。

大嘗祭は、バプテスマ、聖餐、献身礼の三つの要素から成っている。

天照大神の物語は、キリストの贖罪と復活と酷似している。そして、神社本庁は、天照大神がキリストであることを正式に認めている。
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しかし、ここで読者には疑問があるだろう。

これだけキリスト教と関係している日本なのに、その後、なぜ仏教国に変化したのかと。

私は、まだその事情が分からない。

私の推測では、神のご配慮により、時が来るまで、日本には仏教という覆いが掛けられたのだろう。日本の本質を隠すことを神はあえて許されたのだろう。

もともと日本には、トーラー(聖書)を含め、ユダヤの文物が数多く存在したと思われる。しかし、クーデター政権によって、それらがことごとく廃棄された。

天地創造、堕罪、キリストの贖罪と復活の物語は、大きくゆがんだ。あえて汚物や好色な話をちりばめ、多くの神々を登場させるという方法で、わけの分からない神話に変わった。

神は悪魔の働きを許された。それは、時が来るまで諸外国から日本の存在を隠し、その聖遺物を隠すためではなかったか。

クーデター政権は、天皇家の中でも仏教を受け入れない人間を退け、受け入れる人間を即位させたのだろう。

そして、明治政府にいたるまで、キリスト教系の天皇は下野していた。

明治維新は、キリスト教系の天皇の復活ではなかったか。

おそらく、神道側は、外面では時の権力に合わせつつも、自らの本質を奥深くに隠しながら、公表できる時を待ち続けた。

昭和37年の神社本庁の前記のカミングアウトと、近年の飛鳥氏を通じての八咫烏による伊勢神宮の秘密の公表は、彼らがその時が来たということを悟ったがゆえの行動ではないだろうか。

日本がいよいよ、本来の姿に戻る時が来た。

 

 

 

2008年11月23日