「常陸の国風土記 -ある島での少年と少女のやりとり-」


本義だけが意味を成し、本義のみがクローズアップされますように


本質的な鏡は霊的な存在とも言え、あなたが本気で誰かを思えば、それはあなたに内在し顕現化されるとも言える

連中は選別して悪いことばかり人工転送するので、上記実行しそれでも良いことが起こるのであれば、それは本物なのである。連中が人工操作して仮に良いことを転送させてきても、現状よりはましになるので、みなさんぜひそうすべきである。

 

 

 

エス様の再臨の日には、イエス様が目に見える形でこの地の上に来られるわけですが、それと同時に、霊の人としても来られます。

従って、霊の人でもあるイエス様を、自らの内なる聖霊の生き生きとした働きによって受け入れることが不可欠になります。霊の人であられるイエス様は、再臨で来られた瞬間に、霊により、自分の内なる聖霊を通じて自らの存在を啓示なさいますから、クリスチャンの間から瞬間的に「イエス様が来られた!ハレルヤ!」という喜びが発出します。論理的なプロセスのない、一瞬の受容です。

 

人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。(マタイ24:27)


そのため、霊としてのイエス様を、内なる聖霊の生き生きとした働きにより受け入れる準備ができていないと、目に見える再臨のイエス様は目で見ているのに、霊の人であるイエス様を受容することができず、この世の人のようにしかイエス様に接することができないということになりかねません。すなわち、主イエス・キリストを頭とする霊的なひとつの教会に、霊として参集することができない可能性も出てきます。これは悲しいことです。

 

聖霊はよく言われているように、イエス様が主であると信じ、口で言い表した瞬間に人の内側にやってきて住まわれます。しかし、そのままでは、生き生きと働いて下さる状況にはありません。これから起こる何かを前もって知らせてくれたり、必要な時に瞬間的に特定のみことばを思い起こさせてくれたり、目の前にいる人に絶対に伝えた方がよい聖書的な何かを脳裏に浮かび上がらせたり、といった聖霊様の生き生きとした働きは、ひとつの地境をジャンプして越えることから始まります。

 

パウロが第一コリントで論じているすべての御霊の賜物へのアクセスも、ひとつの地境をジャンプして越えることで可能になります。

 

ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。(第一コリント2:12-13)



JLovesCoffee


◼︎御霊によってわきまえるとはどういうことか

パウロは、御霊のことは御霊によってわきまえると論じています(新改訳)。このところがいまひとつわかりにくいので、分解してみます。
 

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(第一コリント2:14)

King James Version
But the natural man receiveth not the things of the Spirit of God: for they are foolishness unto him: neither can he know them, because they are spiritually discerned.
 

KJV直訳
しかし自然的な人間は神の御霊の事柄を受け入れない。というのも、それら(御霊の事柄)は彼(自然的な人間)にはばかばかしいからである。理解することもできない。なぜなら、それら(御霊の事柄)は霊的に識別されるからである。


King James Version(欽定訳)は、言うまでもなく英語訳聖書の金字塔であり、現代英語の言語としての中核を担っている優れた言語的な労作です(英語学系の学科にいたものですから、そのへんは学びました)。訳語の選定では、聖霊による積極的な関与があったと確信しています。

御霊の事柄は、自然的な人間にはばかばかしいとまで言っています。なるほど、そうかも知れません。この世的な観点から見れば、聖書に記されている聖霊に関するすべての記述は、「論理的にナンセンス」といった一言で片付けられてしまう可能性すらあります。悲しむべきことですが。

要は、聖霊に関する聖書の中の記述は、論理的なアプローチでは、理解不能なのです。

日本語で「わきまえる」と訳されている部分をギリシャ語で確認すると、anakrinó(アナクリーノー)という動詞です。意味は、吟味する、調べ込む、調査する、問いを発する。聖書的な語釈の注解書では、次のように説明されています。

・語根anaは「プロセスを完結すること」、語根krínōは「分別し判断することによって選別すること」。
・anakrinóは文字通りは、上から下までしっかりと見て大胆に識別すること。
・例えば、対象物にぐっと近寄り、注意深く調査することにより、対象を見究める行為。

これを適用するならば、聖書のみことばの聖霊に関する聖句をしっかりと理解するには、聖霊によって吟味するプロセスが不可欠だということになります。

◼︎異言による聖霊とのコミュニケーション

では、聖霊によって吟味するとはどういうことなのか。

誤解を恐れずに単刀直入に申すならば、異言で祈る中で、聖書のみことばの解き明かしを願うのです。そうすれば、自分の内なる聖霊が、その聖霊に関するみことばの霊的な意味を開示して下さいます。これは何度も行ったことにより、経験的に確かめられていることですし、私の過去3年間の霊的な師も、事あるごとにそのことをおっしゃっていました。一言で言えば、聖霊からいただく啓示により理解するのです。

人にはできないことが神にはおできになります。

すなわち、人には理解できない聖霊に関するみことばの理解も、神であられる聖霊の助けがあれば、理解できるのです。
聖霊は助け主(新改訳)、弁護者(新共同訳)であらせられます。理解したいという強い欲求があれば、必ず、助けて下さいます。

聖霊とのコミュニケーションは、霊の祈り(異言の祈り、ローマ8:26、第一コリント14:14、14:15、エペソ6:18、)を通じて行うしか、ない、と言い切っていいかと思います。自然言語による祈りは、人間の肉のキャップ、悟性のキャップがはまった格好になっており、霊の領域での豊かな祈りの展開には入りたくても入れない状況になっています。異言で祈ることにより、霊による祈りの豊かなバリエーションが切り開かれて、祈り込めば祈り込むほどに、聖書的な意味での霊の世界が拓けていきます。みことばのすべての霊的なポテンシャルの開示が始まります。聖書のみことばは霊ですから。

 

 


Rebecca Siegel

 


◼︎異言をいただくための祈り

では、いま現在、異言で祈ることができない状況にある方が、異言で祈ることができるようになるには、どのようにすればよいのか?

 

私は、日本の過半の教会で、聖霊バプテスマを取り扱っておらず、異言で祈ることを教会内で教えていないということを、比較的最近に知りました。教会によっては、異言について話すことを暗黙のうちに禁じているところもあると聞いています。それを知った上であえて記しています。なぜならば、再臨のイエス様を、内なる聖霊の生き生きとした働きによって全的に一瞬のうちに受容することは、キリスト者としての当然の権利だと考えているからです。

 

人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。(マタイ24:27)


いまはエンドタイムズですから、イエス様の再臨はまだまだ遠いと言える状況にはないですから、私は聖書をはずれない限りは、多少の大胆なことは、主が認めて下さると考えています。

著名な米国の牧師の講演で、彼の青年期のEvangelicalな所属教会では、異言を教えてくれなかったので(聖霊バプテスマを取り扱っていなかったので)、聖書の中の記述を参考にしながら、見よう見まねでやっているうちに、異言が出た、という経験談を聞いたことがあります。私はこのやり方が、まったく、よいと考えています。

聖霊様に祈って、以下のやり方を教えていただきました。私はこれが、聖書的なやり方だと信じています。

聖霊に関する聖書箇所を朗読する
*事前に関連箇所の勉強をしておくことは不可欠です。朗読は3回程度は連続で声に出して読みます。霊的な打ち破りを招来するという意味で、10回程度の朗読もよいでしょう。回数多く朗読すると、聖書のみことばの霊である特性が活性化してきます。

ヨハネ1章32節〜34節
またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

ヨハネ14章16節〜17節
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

ヨハネ14章25節〜26節
このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

使徒の働き1章4節〜8節
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです。」
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
エスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

使徒の働き2章1節〜4節
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

使徒の働き2章15節〜18節
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

使徒の働き19章1節〜7節
アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、
「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えた。
「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と言うと、「ヨハネバプテスマです」と答えた。
そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言った。
これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。
パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。
その人々は、みなで十二人ほどであった。


◎次のように祈ります

聖書の福音書で主イエス・キリストが預言なさっているように、私にも聖霊バプテスマを授けて下さい。異言によって祈らせて下さい。
五旬節の日に初代教会に臨んだように、主イエス・キリストを頭としていただく教会の教会員である私にも、聖霊を満たして下さい。異言によって祈らせて下さい。
また、福音書ではイエス様が、求めなさい、そうすれば与えられますとおっしゃっています。子が魚を下さいと言うのに、誰が蛇を与えるでしょう、ともおっしゃっています。ですから、私にも、聖霊バプテスマを授け、異言をお与え下さい。
この祈りを、イエスの名によって、お捧げします。
私はこれがかなえられたことを信じて、感謝いたします。アーメン

根拠聖句
マタイ7章7節〜10節
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

*祈りに用いる「イエスの名によって」、「イエスの御名によって」、「イエス様のお名前によって」は、どれがいいのか諸説あるが、ストレートに求める力強い祈りでは、尾ひれのついていない「イエスの名によって」がよいようである。英語で”in the name of Jesus”とシンプルに祈ることによって、大きなみわざがなされているのにちなむ。

 

上の祈りを祈った後で、以下に記す、先輩兄弟姉妹の異言を真似る形で、「トタタタタタ」とか、「ララララララ」とか、とにもかくにも、舌を動かして、幼い異言を出します。最初は幼くてもよいのです。同じ音の連続でもまったくオーケーです。

それをやり続けて、異言が、連続して出てくるまで、やりきります。おそらく、聖書の朗読から、異言が連続的に出てくるまで、1.5時間程度でしょう。祈りから異言が連続的に出てくるまで30分程度でしょう。その時間は集中できる環境を作ってから、臨んでください。

 

 


Marco Verch


◎先輩兄弟姉妹の異言をまねる

異言は、口から出てくる言葉でもありますから、身体的な慣れも必要になります。慣れるには、先輩兄弟姉妹の異言を見て、聞いて、参考にして、真似るのが一番の早道です。日本語の異言で祈っている動画というのは、残念ながら見たことがないです。異言は、英語圏の人が祈っているのも、日本語を使う人が祈っているのも、本来的に同じですから、米国の兄弟姉妹が異言で祈っているのを参考資料として使います。


以下の動画は異言が出てくる文脈をよく理解させてくれる優れた要素を多々併せ持った、最良の賛美礼拝動画ですので、聖霊様が生き生きと働く場を見学するという位置付けで、何度も見るのがよいでしょう。
途中で、賛美リードのジェン・ジョンソンの口から異言が出てくる場面があります。また、証をするために出てきたベニー・ジョンソンの口からも、証の後で、異言が出てきているのを聞き取ることができます。なお、こういったスタイルの賛美礼拝は、こちらの投稿で解説しています

米国カリフォルニア州ベテル・チャーチ 賛美礼拝動画”What A Beautiful Name”(15分)。賛美リードJenn Johnson



◼︎1日30分以上異言で祈ることで、霊的な世界が拓けていく

異言の出し始め、1ヶ月〜1年は、無理に異言異言した響きになるようにもっていく必要はなく、「トタタタタ」の連続でもよいですし、ジェン・ジョンソンのように「ララララララ」の連続でもかまわないです。霊の祈りである異言の本質には変わりがありません。

それよりも、異言で祈れるようになったら、1日に5分といった短い時間ではなく、15分、20分、30分。できれば30分以上、異言で祈る習慣を形作ることを強くお勧めします。
異言の祈りは、1回に30分以上行うことによって、どんどん聖書的な意味で言う霊の世界が拓けていきます。聖霊様が自由に語り始めます。

このようにして聖霊様が自由に語って下さるところまで行くと、再臨のイエス様の霊的なお人柄についても、全的に受け入れることができるようになると信じています。僭越でしたがなにとぞよろしくお願い申し上げます。

ハレルヤ!