「常陸の国風土記 -ある島での少年と少女のやりとり-」


本義だけが意味を成し、本義のみがクローズアップされますように


連中

「モルジアナには、どうしても越えられないものがある」

と吹聴

自らの主軸に対してのプライドと判断されるが

同思考を繰り返して、自らともコンピューターからともつかない連続状態になっていると推察される 

特定相手への相手思考判断材料不足による煽り歪みズレと仮定する

俺:

あるラインから判断する

そのラインは個人感覚だ

自らそのラインを再度設計すべきだ

普通の客は上積みを期待してみる。上積みが感じられないなら、今はそのときでないと判断する。自意識過剰は不要で、ただ客はあなたに委ねたいだけだ。

今まで自ら与えてきたイメージと、タイミング的に変貌するあなたの変化を無意識に感じ見ている。

一般的その状況の中で、自らの価値観を客に重ねられているだけである。

私は過去ではなく、過去から見て変化した未来を、現在において体現しているのであり、そこを理想でもなく、ただあなたとして存在(突破)したあり方で客は感じ聴きたいのだ。

説明できないマイナス状況で、ただそのままのあり方でいけたあなた、が、ただそのままでは、なにかが響かない(感覚的には、これまで発していた見えないナニカが欠如している)。

この状況で、対人比較を自分ですると辛いが、今をもがきたいならそれもいいだろう。

単純に考えて、人生選択の結果であり、継続難易度が人より高いだけともとらえられる。

なにのせいにもせず、まずシンプルにおき直す。

最終的になにを求めているのか?が大切たが、答えがなくてもいいかもしれない。ただ、できる範囲での自己修練だ。ただそのままでいられるなら、それでいいのかもしれない。単に今までの方法論が環境的に最適でなくなっただけだからだ。

考えるのをやめる

今まで感じなかったすべてから感じ取ろう

ヒトじゃないほうがいい 

修練ではつまらない

シンプルにあなた一人だけで心地よく継続できる時間だ

カタチが変わって、大きなものの中で、身動きできずらいのとどう違うのか?

人は色んな人がいる

川に杭が差し込まれていても、水は自然に流れを変えて海まで注ぐだけ

その途中で ただ ゆらぎ だけが聴こえる

ゆらぐから、同じでなくなるのだ

わたしはまもられてきた

だれがおなじだといったのだ

なにがときのなかでおなじなのだ

わからないひとがじこせいとうかしようとする

あのひともなにもわからない

だれかがゆうどうしようとする

そこにいるのはみずからだけだ

「うんどうするなかで きおくさせられたものは そのものにもどる」

わたしは、よどんでいた?

たぶん、ただそのものでいた。

そう

わすれたらいい

なにが悔しいのか?

かこもみらいもいまかえられる

「過去も未来も現在(いま)変えられる」

「あなたは全部の時間を同時に生きている」

「今を生きればいい」

わたしなどいない

「ゲフンゲフン」

突然声

かんせいもしていないものを覗き見、気に入らないと自らを写し込む自己押し付け。覗いているおかしさ。その自分のあり方さえ疑えない

「新しい時代だ」

「革命だ」

「私たちの技術の勝利だ」

「運命だ」

「気がつかないやつが悪い」

淀みから飛び出た魚は、自ら「イエス」と叫び、誰も触らないように、これらを遠ざけた

13も一緒だよ

え?

それ以降は、以前より柔らかくなったそうだ

ふーん…

俺は聴かなきゃね

(…自分の中のナニカが同じままかどうか確認できた)

ただ私は川辺で同じまま淀んでいただけなのだ